週刊ポストと流行語大賞を比較してダブルスタンダードを告発した人には、外山恒一氏の事も思い出して欲しい。

 小学館週刊ポストが「韓国なんて要らない」という特集を組んだ件について、差別的であるとして批判する声が一方にある。

 これに対して、ユーキャンが「保育園落ちた日本死ね」を流行語大賞に選んだことについては、差別的であるという批判が弱かったとして、ダブルスタンダードを告発する声が一方にある。

 私もダブルスタンダードは嫌いであるし、「自己が属する集団への差別は許される」という見解を批判したこともあるので*1、この告発の声には一定の共感を寄せる。

 ただしその共感はあくまで「一定」の範囲までである。なぜならその「日本死ね」に怒った人の多くもまた、外山恒一氏の「こんな国、滅ぼしましょう、原発で」はスルーしていた事をまだ覚えているからだ。

 少なくとも字面だけで比較すれば、外山氏の発言が一番酷い。「韓国なんか要らない」は、主語にとって要らないというだけであり、対象の存亡については対象の自主性に委ねられている。「日本死ね」は、死んでくれればもう満足のようであり、死因は対象自身が選べそうである。そして「滅ぼしましょう、原発で」は、死因が一種類に固定されている。

 この一番酷い発言への批判が一番弱かった件に言及し、その原因を究明してこそ、小学館とユーキャンへのダブルスタンダート関連の言説にもより凄味が出ると思う。

 確かに、有力な一派に対して「何故コレは良くてソレは駄目なんだ?」という声を上げる事は素晴らしい。しかしそこで終わらせずに、「そういえばアレはどうだったかな?」と自問自答し、何が世間の反応の微妙な差異を生み出す変数なのかを考察する事は、もっと素晴らしい事である。

「鳳梧洞戦闘」・「青山里戦闘」に関して親韓派が何も語らないのは悪手だと思う。

 日韓では歴史や領土をめぐって様々な対立があるが、日本国内では大概は相手を擁護する見解も流通し論争が起き、その事に密かな誇りを持つ者も多数いる。

 そして昨今では、輸出管理をめぐる対立で韓国を支持する意見が他の論争の平均より弱い事を危ぶむ声もある。

 だが私の見る所、本当にワンサイドゲームになっているのは「鳳梧洞戦闘」・「青山里戦闘」をめぐる日韓の通説の違いである。

 これについて親韓派が比較検証をしたり他派に論争をしかけたりした記事を私はネット上で見た事が無い。かなり工夫をして検索をしたのだが、嫌韓かせいぜい中道派の書いた記事ばかり見当たる。

 そして嫌韓派の書いた記事の場合、大概は「だから他の歴史論争でも日本が一方的に正しいのだ」という印象が醸し出されている。

 この件について親韓派が何も語らないのは、少なくとも現在においては悪手であろう。

 以下、三つに場合分けをして考えてみる。

 第一に、韓国側の通説の方が正しいと判断したならば、その根拠を提示して嫌韓派と戦うべきであろう。

 第二に、どちらの通説も間違いで戦闘規模や死者数は両者の主張の中間ぐらいだと判断したならば、その根拠を提示して両国の和解に努めるべきであろう。

 第三に、こればっかりは日本側が正しいと判断したならば、それを正直に表明すべきであろう。そうすればこの問題では状況がこれ以上悪くなる事はもう無いのに対し、「鳳梧洞戦闘論争・青山里戦闘論争では日本側の肩を持ったAさんですら、B事件では韓国の肩を持つ」等の形で、別の論争での力になるだろう。

 第二・第三の場合は話が少々複雑であり、「鳳梧洞戦闘」・「青山里戦闘」という単語の知名度が日本で低かった頃は「韓国(も/が)間違っている」と大声で言うのは親韓派の利益にならなかったかもしれない。

 しかし日本人の有名な俳優も出演した映画『鳳梧洞戦闘』がこの夏に韓国で大ヒットをし、その一件が日本でもニュースになったので、今後はこの二つの単語の検索をする人も増えるであろう。ここまで偉そうな文体を用いてきた私も、そんなミーハーな人間の一人である。

 つまり何であれ何か語りさえすれば、何らかの形で親韓派の利益になるという状況なのである。

 そうであるのにこの問題について何も言わないというのは、完全な悪手であると思うのだ。

「マスコミが諸派の動向を報じないのは、もはや参入障壁ではなくビギナー優待制度」という私の主張の証拠がやっと出来上がった。そして、「ではどうすべきか?」についても語る。

1.「起」の章

 幸福実現党をマスコミがほとんど報道しない件については、多くのシンパが「マスコミが報道しないから票が伸び悩んで、悔しい」と語り、多くのアンチが「マスコミが報道しないから票が伸び悩んで、嬉しい」と語っていた。

 私はその風潮に抗して「マスコミが報道しないからこそ危険なのだ」と叫び続けたのだ。昔と違って今はマスコミに報道してもらわなくてもインターネットというものがあるのだから、「まだ権力は無いけど金や知名度は既にある」タイプの諸派をもっと監視すべきだと考えたのだ。

 しかし「悪名は無名に勝る」という諺とともに、業界では有名らしい外国の選挙の例等を出されたりして、沈黙を強いられてきた。

 仕方なく個人の立場で幸福実現党の有力者の言動を数年間批判し続けたのだが、連帯出来たのは母体である教団がそもそも嫌いという人ばかりであり、残念ながら党でのみ有力な大江康弘氏の情報等は全然入ってこなかった。

2.「承」の章

 そんな中、万民を納得させられる証拠が一気に二つも出来上がった。「れい新」と「N国」である。

 「れい新」については、原発や消費税に反対して障がい者を重んじる姿勢から、当初は「何となく左っぽい」と思われていた。しかし当選者の第二次世界大戦に関する歴史認識が寧ろ右寄りであったりしたため、「左っぽさ」に期待して投票した人から今や失望の声が上がっている。

 「N国」については、NHKに自由競争を強いる態度から、当初は「何となく資本主義っぽい」と思われていた。しかし当選後に民放やその広告主である民間企業を攻撃し始めたため、「資本主義っぽさ」に期待して投票した人から今や失望の声が上がっている。

 これらこそ、「事前にもっと党の情報が知られていれば、寧ろ票が減っていたかもしれない」事例として最適であろう。

 今やマスコミが諸派について批判も賞賛もしないことは、「無名」なんかではなく、「本人たちの自画自賛のみが流通する」状態を意味するのである。

3.「転」の章

 ネットでは既成政党の支持者がそうした後悔をしている人に対して「ちゃんと調べてから投票しろ!」と説教をしている姿が見られるが、これには到底賛同出来ない。

 既成政党の支持者が酸いも甘いもかみ分けた上で「後悔しない」投票を出来たのは、「大人だったから」というより、その党の良い情報も悪い情報も氾濫していたからであろう。

 むしろ「れい新」と「N国」の大まかな主張だけでも知って投票をした支持者の平均のほうが、世間の平均より「政治に関心がある」可能性が高いぐらいである。

 ではマスコミが諸派も監視すべきかというと、そうもいかない事は良く分かっている。

 まずマスコミは商売である。諸派を監視してもその成果に金を払う者が少ない。そして金がなくなれば肝心の既成政党への監視の力も衰える。加えてテレビは放送法で中立が義務づけられているので、議席等の客観的かつ機械的な数値を元にリソースの振り分けのための内部基準を作らざるを得ないであろう。

4.「結」の章

 そうなると、残るは身軽な諸個人が積極的に諸派を監視するというのが、一番現実的な結論になりそうである。

 ネットが産んだ不当なビギナー優待制度を、ネットの力で解決してしまおうではないか。

「サクラ大戦 帝劇宣伝部通信」第3回(8/21)


「サクラ大戦 帝劇宣伝部通信」第3回(8/21)

1.総論として大満足

 前回と前々回においては「もっと多くの情報を!」という気分になったが、今回は戦闘システム・関連商品・新キャラクター・イベント情報の量が非常に多く、大満足であった。

 また減点ポイントもなかった。

2.声量ストラックアウト

 50:00ごろから、いかにもゲーム中にありそうなミニゲームを実際にやってくれていた。

 声の大きさを使ったビンゴのようなゲームであり、『サクラ大戦V』のスティックの微妙な操作を要求される対応を思い出した。

 最初に一番大きそうな声を出し、次に一番小さそうな声を出し、その次から微調節をしていくという神プレイに、ただただ感動である。

3.Arbitre d'enfer

 25:20あたりで紹介されたクラリッサの必殺技"Arbitre d'enfer"はフランス語である。

 ルクセンブルクでもフランス語は公用語の一つなので、これは決して減点要素ではない。

 しかしそこを敢えてルクセンブルク語にしてくれれば、なお一層異国情緒が醸し出せただろうにと、惜しい気分である。

4.月組は?

 花組隊長の神山が「特命宣伝部長」の立場で劇場の宣伝をしつつ情報収集にも努めるという描写があった。

 最初に見たときはただただ笑ってしまったのだが、情報収集といえば嘗ては月組の仕事だった事を思い出した。

 帝国華撃団は予算不足で衰退中という描写もあったので、今回はひょっとしたら月組が存在しないのかもしれない。

サクラ大戦V ~さらば愛しき人よ~ 通常版

サクラ大戦V ~さらば愛しき人よ~ 通常版

 

最近、統一教会と政界の癒着を告発する主張をほぼ見かけなくなっていた件について。

 第一次安倍政権の頃は、安倍晋三氏と統一教会の癒着が囁かれ、安倍壺三というあだ名も一部で流行していた。

 しかし第二次安倍政権になってしばらくした頃から、統一教会と政界の癒着を告発する主張をほぼ見かけなくなっていた。

 代わりにしばしば目にしたのは、「安倍政権の黒幕は日本会議だ」説や「安倍政権は嫌韓を煽っている」説であった。

 そして正直に告白すると、私もその変遷の影響を多分に受けていた。そして以下のような仮説を立てていた。

 「冷戦構造の崩壊・統一教会教祖の死亡・統一教会の分裂・ムンジェイン政権の成立等の事情により、日本の保守政党への韓国・統一教会の影響力は激減し、かつては冷遇されていた日本の圧力団体が台頭してきているのだろう」

 しかしハーバービジネスオンラインで鈴木エイト氏が書いた記事群*1、とりわけ「政界宗教汚染」というシリーズに数日前に触れ、認識を改めた。

 鈴木氏の一連の記事を読むと、第一次安倍政権よりも第二次安倍政権下で統一教会の日本政界への影響力が増しているようである。

 決して鵜呑みにしたわけではないが、「現在の政界への影響力では日本会議が独走!」説の人からの反論のようなものは、ざっと検索した限りでは存在しなかった。

 鈴木説は、政権批判の主流からは活用もされず陰謀論として唾棄もされず、敬遠されているようである。もちろん政権支持派からもほぼ黙殺されている。

 なぜこんな事になっているかといえば、おそらく「安倍政権の黒幕は日本会議だ」説や「安倍政権は嫌韓を煽っている」説だけで分かりやすい図式を描きたい人にとって、統一教会の存在は話を徒に複雑化させてしまうものだからなのであろう。

 そしてこれは危険な兆候だ。「それなりに実力があるのに、メディアの大半が何らかの大人の事情で監視を怠っている団体」なんてものがあるなら、それこそ本当の意味で「黒幕」であろう。

 日本会議はその点、もはや「白幕」(「黒幕」の対義語が思いつかなかった筆者による造語)である。

 分かりやすい物語に流されない真の大人達が、鈴木氏一人にこの大事な使命を丸投げせず、統一教会を多角的に調査をしてくれることを望む。

 また長年この分かりやすい物語を前提にして親韓・嫌韓活動をしてきた人には、これを機に自分の信じていた世界を問い直して欲しい。

「れい新」と「N国」はポピュリズムの要素が濃厚だと思う。しかし民主主義を砕く波としての側面よりも、防波堤としての側面の方が強いと思い、感謝している。

 世間では既成政党の支持者からの「れい新」と「N国」への風当たりが強い。ポピュリズム政党だとして批判の対象とされている。

 かくいう私も、既成政党のほうが好きであり、「れい新」と「N国」が大衆扇動型の政党であると分析しているうちの一人である。

 にもかかわらず、皮肉ではなく本当にこの二政党には感謝している。

 そもそも遡れば、小選挙区制が導入された時に既存の政治全体に絶望する人が増えることは予想されていた。

 一般論として、小選挙区制になれば名目はともかく実質において世は二大政党制に近づく。しかもそれは内部の多様性の少ない二大政党である。その流れに抵抗をすると、選挙では自動的に勝率が下がる仕組みだからだ。

 そして日本でも紆余曲折はあったものの、そうした傾向は着実に強まっていった。右派については、郵政民営化を通じて自由民主党内の多様性は減り、さらに自公連立の長期化により両党の立場が徐々に似通ってきている。左派も既成政党は野党共闘を通じて徐々に似たり寄ったりの存在となり、あの日本共産党ですら立憲民主党との差異を減らしてきている。

 こうなると、「X党内の異端児が俺の主張を代弁してくれている!」という満足をする人の数が徐々に減っていき、既存の政治に背を向け始める。

 既存の政治に見捨てられ絶望した人の中には、違法な政治改革集団に期待する者が必ず出てくる。そこまで極端ではなくても、そうした違法な団体から民主政治という枠組みを守り抜こうという積極的意思を失ったりする。投げやりになって怪しい政党に投票する形で政治全体への不信任票を投じ始めたりする者も出てくる。

 そうした人たちの票や資金を一つに纏めて巨大な力を作ろうとしたのが、外山恒一氏の「あの」政見放送であった。余りにその意図が露骨だったのと、政策面が弱かったのと、東京都知事選には不満のはけ口が他にも多々あったのとで、大した票には結びつかなかったが、全国でかなり好意的な形で有名になった点では、一定の成果を挙げたといえよう。

 この種の票や資金を国会に回収しなおしてくれるのが、ポピュリズム政党なのである。到底疎かにはできない。

 幸福実現党の比例票が前回の四割も減ったという話は、数日前に書いた。この四割減という数字は、母体である教団の衰退の速度と比しても異常な程大きい。おそらくは、「既存の政治にノー!」という意思を込めて消極的に投じられていた票を、「れい新」と「N国」が奪ってくれたのであろう。

 だから私は「れい新」と「N国」にまれにカルト要素を見出しても、「外山恒一氏や大川隆法氏が一つに纏めていたかもしれない既成政党への不満を、わざわざ二分割した上で、自ら咀嚼し消化してこんなにも薄めてくれた人たちだ」という感謝の念が浮かんでくるのである。

ネットが発達した現代だからこそ、「戦わない民主主義」を暫定的に支持している。

 このブログでは「戦う民主主義」について何度も話題にしてきた。しかも正の側面と負の側面の両方を紹介してきた。

 しかし一方で自分自身の態度については語ってこなかった気がする。

 これについては昨日現実に熱く語ったので、その内容をほぼそのままここに書こうと思う。

 自分は、ネットが発達する前はどちらかというと「戦う民主主義」者だった。そして今では、暫定的に「戦わない民主主義」を支持している。

 なぜなら、ネットが発達する前は「表現には表現で立ち向かおう」という標語は絵に描いた餅だったのだ。

 国家権力が「正しい思想・表現・言論」を認定してそれ以外の正しくないものを弾圧する事は、確かに自由を大幅に縮小させる危険なものであるが、かつてはもっと危険な「強者の表現」というものがあったのである。

 だがネットの発達により、「表現には表現で立ち向かおう」が決して絵空事ではなくなってきた。

 そうした現状を見て、「今では戦わない民主主義の方がやや上回る」と考えるようになったのである。

 そういうわけで、私のかつての「戦う民主主義」支持も、今の「戦わない民主主義」支持も、利益を比較衡量した上での暫定的なものである。

 だから社会情勢次第では寝返る。また結論を一時的に共有している相手でも、過度に「戦う民主主義」や「戦う民主主義国」を崇拝したり唾棄したりする者とは、距離を置いているのである。