秦の「三世」

 一年前、T_S氏の秦王子嬰の正体に関する一連の考察(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100502/1272727354http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100503/1272817126http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100506/1273072210)と、nagaichi氏による子嬰の正体に関する諸説の整理(http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100504/p1)とを、拝読した。
 本日はこの問題について最近自分が思いついた事を書く。
 T_S氏は、ブックマーク(http://b.hatena.ne.jp/T_S/20100504#bookmark-21287945)で、「始皇帝の弟」と「始皇帝の孫」というかけはなれた説が一つの書に共存している事に疑問を呈し、「「秦王子嬰」として知られる人物が2人いたとでも思わないと納得できない。」と書いている。これが以下の着想のヒントになった。
 子嬰は始皇帝の弟にして孫なのではあるまいか?
 複雑な系図を想定している訳ではない。始皇帝の弟が擬制として孫でもあった事が、表記を混乱させた原因なのではないか、と思ったのである。
 『史記』に記載された始皇帝の「朕為始皇帝 後世以計數 二世三世至于萬世 傳之無窮」という発言からは、二世の次は必ず三世でなければならないという秩序が窺える。秦王室が秦帝室へとなった際に、皇帝の後継者はその次の世代の人物でなければならないという宗法秩序が、かなり徹底した形で決定された可能性が高い。
 この場合、始皇帝の孫レベルの世代を用意出来なかった秦自身が、実際には始皇帝の弟である子嬰を権威付けのために始皇帝の孫だと対外的に発表した可能性が出てくる。あるいは、二世皇帝の次は三世皇帝が即位するに決まっていると世間が思い込んでいたために、秦の内外で情報が交雑してしまった、という可能性も考えられる。
 子嬰が秦の三世皇帝ではなく秦王として即位したのも、六国への妥協だけが理由ではなく、そもそも実際に三世ではなかった事が原因なのかもしれない。

史記 1 本紀 上 新釈漢文大系 (38)

史記 1 本紀 上 新釈漢文大系 (38)