私憤と公憤とを区別するための私の技法

 中学生の頃の私に多大な不快感を与えていた二人の同級生が、二十歳前後で相次いで死亡した。
 一人目の死を聞いた時には、復讐の機会が永遠に失われた事を残念がる気持ちになった。だが二人目の死を聞いた時には、世界が少し平和に近づいた事を純粋に祝う気持ちになった。
 最初は何故こんなにも気分が違うのかが判らず、過去の自分の被害の微妙な差異の検証ばかりしていた。だが数時間経過した時に、これこそ今まで抽象的にしか知らなかった私憤と公憤の違いなのだと気付いた。
 それ以来私は、他人や他集団に対して憤りを感じた際には、常に「相手が今すぐ苦しまずに死んだら、本当に嬉しいのか?」と自問する事にしている。もしも「否!少しは(または大いに)苦しんでもらう必要がある!」と自分が答えたなら、それは私憤である。
 私憤にあれこれ理屈を付けて公憤の装いを凝らすのは偽善である。また逆に公憤を単なる私憤だと勘違いしてしまうと、公的に検証されるべき悪を自分一個の慈悲によって許してしまう惧れがある。この意味で、両者の識別は重要である。
 とはいえ、冒頭で紹介した100%の公憤も100%の私憤も、実際にはかなり稀である。毎日逆恨みに明け暮れていたりする人や、遥か海の向こうの独裁者を本気で憎める人にとっては、そういった感情は日常茶飯事かもしれないが、私はそこまで根性が曲がってもいなければ真っ直ぐでもないので、やはり稀である。50:50ぐらいの事が多い(一例→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100522/1274515658)。
 その意味で、私が若い内に見事なまでの対極を体感して公憤と私憤の違いを理解し、その識別法を体得出来た事は、実に幸運な偶然であると言える。
 これに免じてあの二人を二人とも許してやりたい所なのだが、上述の理由により、片方だけを許した。