「大東亜戦争肯定論」という用語自体を批判する人がほぼ皆無な件

 右派にも左派にも、用語に強いこだわりを持ってくれる人がいる。そのこだわりの背後には別の動機があるのかもしれないが、用語自体を検証する主張には虚を突かれて自分の既成概念を破壊される事もあり、時折感心させられている。
 最近議論されている用語の例を二つ挙げる。
 まず在日外国人の種々の権利の廃止や縮小化を目指す人が好んで使う「在日特権」という用語については、主に左派から、「それを『特権』と表現するのは日本語として如何なものか?」という批判が寄せられている。
 また戦時中の朝鮮半島における徴用を批判する人が好んで使う「強制連行」という用語については、主に右派から、「それを『強制連行』と表現するのは日本語として如何なものか?」という批判が寄せられている。
 マスコミでは「つーじりゃいーんだよ」と主張する若者の問題がしばしば誇大視されているが、実際の世の中には斯くも言語に敏感な人が多いのである。
 ところが、「大東亜戦争肯定論」という用語には、不思議と批判を浴びせる人が少ないのである。本日はこれについて論じたい。
 話を分かりやすくするため、まずは大東亜戦争の「全面肯定論」というものを想定してみる。
 全面肯定論者においては、例えば日本兵がある島で百人戦死したという史実があるなら、それを全面的に肯定し、「戦死者が九十九人だったり百一人だったりしたら大変だった。あー良かった。」と言わなければならない事になる。
 流石にそうした完全なる肯定論は存在しないだろうから、全面肯定論ではない普通の大東亜戦争肯定論とは、概ね戦争全体の50.1%から99.9%ぐらいまでを是認するものを指すというのが、通常の日本語から想定される用法であると言える。
 例えば、「戦時中のアメリカの行為は75点、日本の行為は30点だ!」という主張は、戦争の52.5%ぐらいを肯定しているので、通常の日本語から考えるならば、大東亜戦争肯定論であると言えよう。
 ところが、現実の言論空間における大東亜戦争肯定論とは「日本側の大義名分を高く評価する思想」という定義で通用しており、右派も左派もその風潮に異議を唱えず、それを前提にしてその主張の内容だけを吟味し合うという態度を示している。
 私自身は、この風潮が続く限りは特段の異議を態々申し立てる気にならないので、今後も「大東亜戦争肯定論? ああ、あの日本側の大義についてのみ検証し、そこに50.1%以上の正義を見出す思想ね」という態度を貫く予定である。「つーじりゃいー」という立場を部分的に肯定しているので。
 しかし他の用語については、用語が示す内容以前に用語自体について鋭い議論が行われる事が多い昨今の風潮の中で、大東亜戦争肯定論という用語が斯くも批判を免れている事については、「何かおかしい。」と感じ、漠然とした不安に陥っている次第である。