韓国の大統領罷免問題について、「まるで日本だ!」という意見だけ何故か見かけなかったが、私はそう感じた。

 韓国で、スキャンダルのあった大統領が国民的運動の力を背景に罷免され、その後は後継者選びでも小さなスキャンダルの嵐が巻き起こり続けているようである。
 管見の限りでは、韓国のそうした状況を日本と比較する言論の大半は、「韓国の民主主義は日本よりすばらしい。国民運動で元首を倒した!」というものか、「韓国の衆愚主義は日本より酷い。些細なスキャンダルで大騒ぎをした挙句、その果実を回収出来ていない。」というものかの、どちらか一方の極論ばかりであった。
 勿論その両説ともにそれぞれ真理の一部が反映されているとは思うので、無ければ無いで困るのだが、こうした韓国を完全な異世界であるかの様に描く論ばかりでは、学ぶ範囲も狭まってしまう。
 私には寧ろ、「まるで日本だ!」という感想の方が強く生じた。
 最近の日本政治では、東京都知事の地位をめぐる争いが韓国大統領の地位をめぐる争いと、多くの共通点を持っている(勿論相違点もあるが)。
 まず、猪瀬都知事の些細なスキャンダルをあげつらって強い民意の力で彼を辞職に追い込んだ。その直後の選挙では左派は候補者の一本化の是非をめぐって激しい抗争を行い、右派の次強はやがて強い選挙違反疑惑で引退をする事になった。そしてようやく選んだ舛添都知事を、これまたすぐに些細なスキャンダルをあげつらって強い民意の力で辞職に追い込んだ。その後の選挙では、左右共に候補者の一本化の是非をめぐって激しい抗争を行った。こうした混乱のそもそものきっかけである石原都知事の突然の辞任については、それがきっかけであった事すらほぼ忘れ去られ、石原が辞めればバラ色の未来があるかのように喧伝していた連中もどこかへ消えてしまった。
 単純に、日本国総理大臣の地位をめぐる抗争だけを韓国大統領の地位をめぐる抗争と比較した場合、確かに相違点の方が目立ち易い。しかし東京都知事の地位をめぐる抗争と比較した場合、共通点の方が目立つ程ではあるまいか?
 都民は国民の一部でしかないが、全国から少しずつ集まった人々であり、ある意味では国民の縮図である。
 よって日本国も、三権分立の仕組みを少し変えて、一度選ばれた行政府の長を立法府がそう簡単には罷免出来ないような韓国や東京都のような制度にしてしまえば、行政府の長の地位をめぐる争いに関しても、良くも悪くもこうした傾向が強まるのではないかと私は考えている。
 実際に森喜朗政権末期にはその萌芽が既に見られた。