芯の無い扇動屋を苦しめる過去の己の言動

 以前、幸福の科学のアンチとシンパの多種多様なブログを集中的に読みふけったことがあった。

 本来の目的は幸福実現党の監視のための基礎知識の収集であったが、副産物として扇動屋というものについてそれなりに面白い知見を得ることができた。

 芯がある人は幸福の科学に対して本人なりの是々非々の態度を採り、またそれが故に有力幹部に個性というものの存在を認めていた。一方カルト化した扇動屋は幸福の科学のやる事なす事すべてへの評価が毎回同じような雰囲気であった。そういう扇動ブログはシンパに多かったが、アンチにも多少いた。

 しばらく監視を続けていたら、元ナンバー2の大川きょう子氏が教団から追放された。

 この後、それまできょう子氏を褒め続けたり貶し続けたりしていた者たちのブログが、書き手の意図とは別の意味で非常に面白かった。

 一番頭の悪い連中は、それまでと逆の事を書いて恥じ入る事をしなかった。

 多少知能のある連中は、自分が過去に一生懸命書いた記事をまた一生懸命消してから、それまでと逆の事を書き始めた。

 限りなく一般人に近い理性のある連中は、過去記事と整合性をとるため新しい事態への見解の表明を不自然に控えて、過疎化していった。

 大川宏洋氏(後の宏洋氏)が離反した際も、似たような悲喜劇が起きた。

 その点、私の様に教団にも二氏にも元から是々非々の評価を下し続けてきた者たちは、天衣無縫の自由の境地であった。

 結論ありきで生きていると、結論を元に己の規範や理論といったアイデンティティを作ることになるから、結論が強制的に変えられた時に逆算式にアイデンティティクライシスに陥るのである。

 そういう芯の無い者は、過去との整合性を要求されるブログを書くのには向いていないから、匿名掲示板で「幸福の科学は良い(悪い)」と毎日百回書いているほうが幸福であろう。

 なお、当然ながらこうした扇動ブロガーの起こす悲喜劇は、幸福の科学問題のみならず、カルト化しやすい話題の傍にいつもころがっている。

 他で一番面白かった例としては、「セウォル号沈没をめぐる朴槿恵vs加藤達也」である。この件で先走って色々余計な事まで断言調で語りすぎたカルト親韓・カルト嫌韓のブログは、セウォル号沈没時の朴槿恵を批判する勢力が韓国の主流派になったという事態に上手に適応出来なかったのである。