デジタルネイティブ世代への遺言。言論に言論以外のもので立ち向かった者たちを、ネット以後の常識で裁かないで欲しい。

 「現代の価値観で過去を裁くな」という主張の多くは、「新憲法制定」とか「ソ連崩壊」等の政治的な動向で裁けない過去と裁ける現代との間に一線を引く事が多いが、本稿では時代をネット以前とネット以後という技術的な観点から分けている。

 おそらくデジタルネイティブ世代の多くは、本当の意味で「強者の言論」というものを体験した事がないだろう。ネットを漁ると、数百万部発行の新聞に姿勢の一般人が気軽に反論を書いており、新聞の権威は地に堕ちている。

 この常識を過去に適用すれば、言論に暴力で立ち向かった者たちは、ただの卑怯者にしか見えないだろう。そして「朝日新聞に言論で立ち向かうネトウヨたちは、暴力で立ち向かった赤報隊よりも、人として数万倍から数兆倍ぐらい偉い!」とか思ってしまうことだろう。

 しかし新憲法が出来てからネットが普及するまでの間は、「言論には言論で」というのは一般人にとってはただの建前であり、強者の語る嘘には事実上抵抗が出来なかったのである。

 勿論当時とて、「だから弱者は言論に暴力で立ち向かうことを合法化しよう」とか「共産党の主張するアクセス権を認めよう」とかいう意見はついに世の多数派にならなかったので、やはり言論に暴力や無理筋の訴訟で立ち向かった連中は「悪人」ではある。

 しかしネット以後の時代に同じことをするような「極悪人」と同一視するのは、やはり非現実的な評価であるといえよう。

 そして今、ネットで粋がっている者の中には、もしも50年早く生まれていたら赤報隊新左翼の平均的なメンバー以上の悪事をした者が大量にいるだろうと、私は見ている。