元コレクターさんの話を聞き、一気に「所有」の欲がまだかなり残っていたことに気づき、気づくと同時に関連する欲が消えた。

※最近ブログを書く時間が数分しかとれないのと、個人情報保護のため、実体験でありながら極めて抽象的でわかりにくい内容になっているかと思います。ご容赦下さい。

 「コレクター」に因んで仮に「Cさん」と表記するある人から、自分は長年いくつかの所有物を預かっていた。

 一昨日、二年ぶりにCさんと電話で会話をする機会があった。物品を返そうと提案すると、もういらないという意味のことをいわれ、かなり驚いた。

 自分は今までものを蓄えるということをしてこなかったつもりであるが、よくよく考えたら二度と読まないであろう本なども「記念」に所有していた。

 収集癖のあった人が変わったからこそ、「そういえば自分も」と思いを馳せることができたのだ。

 また返す手段を無理して確保し続けていた自分の滑稽さにも気づけた。

 ものを集めると置き場が欲しくなる。ものを借りると(よほどの悪人以外は)返す手段を確保し続けたくなる。それがまた次の煩悩を生む。

 この際限のない連鎖から逃れるには、本当に必要なもの以外は捨ててしまうのが一番だと考えた。

 ただし、「今の自分にとって一番」なのであって、私の持っていた本やCDが誰かの切実な願いの役に立つことはあるだろう。

 西行が銀の猫の置物を、海中に投棄するのではなく、付近の子にあげたように、私の手元にあるものもどんどん他人にわけあたえてしまおう。

 ある意味では「形見分け」に近いが、受け取った人がすぐ転売しても一向に平気である。

 自分の「欲」というものは、すぐにその存在に気づけて「さあ達成するか、それとも消す努力をするか」という問題意識に行けるものもあれば、ふと気づかされるまでそれがあることにすら気づかず、それでいて知らず知らず行動の自由を縛っているタイプのものもあるものなのだと、今回の件で再認識させられた。

 必要物以外全部捨てたつもりになっていたディオゲネスが、食器を使わないパンやスープの食べ方を見て、自分の中の隠された食器への無駄な愛着に気づいたようなのが、今回の私に起きた変化であった。

 それにしてもここ数年は在家仏教をやっているつもりなのに、たとえ話にはいつもギリシアの話題と儒学の話題ばかり出てくるな~。