塵となりゆく私の不運と幸運

 私は生まれつきかなり不運なほうであった。そして不運な出来事が起きるたびに、嘆き悲しみ、天や関係各位を恨んだものである。

 だが非常に幸運なことに、科学と出版の盛んな現代の日本という正真正銘の仏国土に生きたおかげで、厳しい修行などをせずとも、ひたすら知識欲を満たしていただけで、数年前に仏教の「無我」という哲理に心から納得がいった。これは本当に幸運であった。

 以来、世間から見て不運な事態に見舞われても、基本的に他人事という気分になれた。

 例えば100万円を失っても、「自分が可哀想」ではなく、「gureneko氏に将来100万円を施される筈だったどこかの誰か、損したな」という気分のほうが強くなったのである。

 最近も世間的に見れば非常に不幸なことがあり、私は世の表舞台から去ることになった。さらに裏の舞台からも近々去るであろう。

 だがひたすら平常心が続いている。

 この幸運を自分にとっての経済的価値に換算すれば、やや大袈裟かもしれないが、数兆円かもしれない。

 一方、どんなに不運な人でもその損害はせいぜい生涯賃金程度であろう。

 まことに現代日本仏国土である。以下、思いつくままに現代の仏国土への賞賛と感謝を書いておく。

1.科学が未発達であった時代や国と異なり、神経科学などが仏説を裏付けてくれ、おとぎ話のような方便では納得がいかない頑固者の頭をほぐしてくれる。

2.名目上の仏教徒率だけが高かった江戸時代と異なり、様々な宗派の思想を取捨選択できる。仏教学者による客観性の高い仏教研究と、それを伝える出版業・流通業も盛んである。

3.奈良時代などの過去の庶民の大半が莫大な苦労だけをさせられることで作られていった無数の仏像の群が、ほぼ無料で美術を入り口にして現代人を仏教にいざなってくれる。

4.世俗の欲望に塗れた者ほど参考にしやすい豊太閤の伝記の最後には、大概は「露と落ち」の辞世の句が載っている。

 元々存在しなかった仮初の我もまた、やがて露と消えゆく。

 嬉しくもなければ悲しくもなく、私に置き去りにされる者たちへの多少の同情心のみが残っている。