「それでもスターリンにはナチス討伐の功績がある」という意見に反対する。

 以前、「「ナチス専制を倒したから、スターリン専制は正義だ。」と思っている人は、日本でもかなり減ってきた」と書いた*1が、スターリンを批判しつつ「それでもスターリンにはナチス討伐の功績がある」という意見ならば、まだまだよく聞く。

 その根拠としてしばしば出されるのが、他国のそれと比較したソ連の戦死者の多さである。西側が自国兵が死なないように不真面目に戦っている頃、東側は真面目に戦ったとかいう論法である。

 だが私はその部分肯定の意見にすら賛同できない。

 ソ連の兵士が大量に死んだのは、スターリンが優秀な指揮官を粛清しまくったからであろう。

 大粛清がなければもっと効率的に戦えただろうし、さらにいうとナチスもそれを恐れてそもそもソ連と戦おうとすらしなかったかもしれない。そうであればユダヤ人の東方への強制移住計画も少なくともあのような形では実行されなかったであろう。

 だから独ソ戦の直接的・間接的な犠牲者たちの多くは、ヒトラースターリンによって挟み撃ちにあったようなものである。

 ここまでの文章は「スターリンへの評価を零点にしたくない」という方々には不愉快極まりないものであろうが、ここから徐々に愉快になっていくので最後まで読んでほしい。

 「攻め込まれた側を絶対正義とみなしてそこで思考を中断すると、歴史から得られる教訓は少なくなる。攻め込まれた側にどんな問題があったかを冷静に分析すべきだ」というこの私の主張は、スターリンが攻め込む側であった戦争にも平等に適用されるべきだと私は当然に考えている。

 その一例が映画『カティンの森』の感想記事*2である。

 また、アメリカとの戦争に熱中し過ぎて北方の防備をおろそかにしたせいで、スターリンに日ソ中立条約を一方的に破棄されて侵略を受けた大日本帝国は、まさにヒトラー独ソ不可侵条約を一方的に破棄されて侵略を受けたスターリンの二の舞であるともいえる。

 これらの件でスターリンを憎むだけでは、それは何の進歩もない感情で終わってしまうだろう。

 「戦争の反省」をするときには、加害者としての責任を問うだけでなく、被侵略者側として同胞を守り切れなかったことについても当時の日本政府のあり方を批判的に検討すべきであろう。