【自動更新記事】 京都アニメーション放火殺人事件に関してあまり語られない、「表現行為への暴力による挑戦」という視点について。

注・この記事は五月中に書いたものを自動更新させたものなので、「生存報告」を兼ねていません。私がもう死んでいる可能性は十分に理解して下さい。

 このブログは推定無罪の原則を重視する方針であるため、「自分こそが犯人だ!」と主張している者についても「犯人かもしれない」という態度で臨む。記事の本題も、自称犯人たち自身を責めることではなく、彼らの「語られ方」についての風潮を問題視している。そういう意味では、森祐喜氏と浜田幸一氏の逮捕の直後に書いた記事*1に似ている。

 京都アニメーション放火殺人事件について、現在治療中のA容疑者を犯人だと決めつける論者も、「仮にA容疑者が犯人だったとしたら」という仮定の下で語る論者も、その多くが見落としている視点がある。

 それは、仮にA容疑者が動機を正直に語っていた場合、あれは「表現行為への暴力による挑戦」だということである。

 「表現行為への暴力への挑戦」としては、今までは朝日新聞阪神支局襲撃事件が有名だったが、これは三つの理由から本来はもう歴史の彼方に消えてもいいぐらいの件になったとすら評せる。

 第一の理由は、犠牲者数である。

 京アニは36名死亡33人負傷、阪神支局は1名死亡1名負傷である。

 第二の理由は、被害者が強者か否かという問題である。

 以前の記事でも書いたが、インターネットが流通する以前はマスコミの言論は「強者の言論」であり、合法的かつ効果的な抵抗というものはほぼ不可能だった*2

 加えて、新聞社を敵に回すと捜査のプロの警察と取材のプロの記者に挟撃されることになり、逃亡は非常に困難となる。

 よって仮にA容疑者と自称「赤報隊一同」の両者がどちらも真犯人であった場合、A容疑者のほうが二重の意味でより卑怯だということになる。過去記事の表現を流用するなら、「極悪人」と「悪人」の差である。

 第三の理由は、推定無罪の問題である。

 A容疑者は裁判こそまだ終わっていないが、身柄を確保され「京アニの表現は、俺のアイディアの剽窃だから、殺した」という動機を語っている。かつ、このまま裁判が順当に終われば、ますます彼を犯人と決めつけることの問題性も減るだろう。

 一方、「朝日新聞の表現は、俺達にとって気に食わないので、殺した」という動機を手紙で語った自称「赤報隊一同」とやらは本当に真犯人と同じグループだったのかも不明であり、真犯人が実はまったく別の理由で支局を襲撃した可能性も残っている。かつ、もう時効で裁判はできない。

 以上三つの理由から、「表現行為への暴力による挑戦」を語る際に挙げるべき事例としては、朝日新聞阪神支局襲撃事件よりも京都アニメーション放火殺人事件のほうが原則として適切であることが、わかっていただけたと思う。

 さて、ここで「それではなぜ、京都アニメーション放火殺人事件は「ペン対剣」の観点ではあまり語られないのか?」が問題となる。

 理由は色々あると思うが、おそらく最大の理由は「人口に膾炙してきたとはいえアニメーションの表現は馬鹿にしている者がまだ多過ぎ、権威が低下してきたとはいえ新聞の表現は尊敬している者がまだ多過ぎる」ということであろう。

 フェミナチが合法的手段やせいぜい侮辱罪程度の手段でアニメの表現規制を叫ぶと、「アニメ表現も大事だ!」と反論をしてくれる人が日本には相当数居る筈なのだが、そういう人達の多くですら、「ペン対剣」の話題となると京アニ事件の約36分の1の規模の小事件のほうを先に事例に出してしまったりするのである。

 おそらく彼等の大半は本気でアニメの表現を大事にしているのではなく、「アニメは新聞に比べると劣った価値しかない表現だが、フェミナチの敵なら一応は味方だ」程度の意識で騒いでいるのであろう。