「日本をX国の様な国にするな」が常に差別的言辞であると決めつける人への批判 【生存報告記事】

注・この記事は八月初頭に自動更新で発表される予定でしたが、本日零時現在の書き手の生存が確定したので、急遽生存報告記事として先行して発表することにしました。

 「日本をX国の様な国にするな」とか「このままでは日本はX国の様な国になってしまう」といった言辞が「常に」差別的言辞であると決めつける人がいる。本日は彼らを批判する。

 筆者もこうした言辞が文脈次第では差別になり得る事までは認める。

 差別になる文脈の代表例その1は、「Y民族の比率が増えるとその国の文化・学術・スポーツは必ず堕落する。そしてX国はY民族の移民を受け入れたから現に堕落した。日本をX国の様な国にするな」等の、それ自体が差別を煽る内容である。

 その2は、悪い例としてもっと適切な国があるのに、あえてX国を槍玉に挙げる場合である。ただしこの「適切な」は、回避したい欠点の大きさの単なる順位だけでなく、日本におけるその国の知名度や文章全体の目的も勘案しなければならないので、判定は慎重にしなければならない。(参考記事→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/2019/09/25/084717

 しかしそれ以外の場合で、とりわけ人種や民族によって機械的に決定されているわけではない政治体制や教育といったテーマであっても、常に「日本をX国の様な国にするな」が差別的言辞であるという主張には、到底賛同出来ない。

 特定の人種や民族が常に独裁体制と密接につながっていると考える方が差別であろう。

 しかも、そういう人達の主張を受け入れると、「日本をX国の様な国にしよう」等の主張への対抗が酷く困難になる。

 現在ではまだ、各政党が公約として「憲法を改正して言論や結社の自由を強く制限し、一党独裁体制への移行を目指します」と直接的に明確に言おうが「北朝鮮の様な体制を目指します」と間接的に不明確に言おうが、どちらにせよ批判をする事が出来る。しかし「日本をX国の様な国にするな」が差別であり許されないとなると、後者には中々太刀打ち出来ない。

 教育問題でも然り。

 以前森友学園の教育内容に批判的な人達の間で、「北朝鮮の様な教育をするな」という形式の批判の是非をめぐって仲間割れが起きた事がある。

 この時もしも森友学園の幹部が頓智を効かせて「今までの我々の愛国教育にはやり過ぎの面があったと深く反省しました。これからは北朝鮮を模範とし、北朝鮮程度の愛国教育を目指します」と声明を出していたならば、「「北朝鮮の様な教育をするな」は差別だ」派は一気に無力化していたことであろう。

 差別問題に限らず、「~という表現は~なので使わないようにしましょう」は民衆のペンの力をもぐものであるから、慎重の上にも慎重でなければならない。