かつて批判した『戦争責任論の盲点』の後半部分への二度目の擁護

1.これまでの経緯

 かつて『戦争責任論の盲点』の前半部分に100点を与えて後半部分に0点を与えるという、非常に極端な記事を書いた。

 この後半部分のうちの日本共産党の戦争責任を論じた部分に関しては、文章が書かれた時代の状況も考えてある程度批判を緩めるという宣言をした。

 今回はそれに続けて、昭和天皇の戦争責任を論じた部分についても、同じような論法で批判を緩めるという宣言をしようと思う。

2.二度目の擁護

 おそらく『戦争責任論の盲点』が書かれた時代には、ほんの十数年前まで「主権者」だった昭和天皇が「象徴」になったという衝撃は常識としてほぼ誰もが知っていたのであろう。

 そしておそらくは、丸山はそこに甘えた上で「その程度ではまだ責任の全部をとり終えたとは言えない」という意味をより文学的に過激に表現するため、「全く責任をとっていない」と筆を滑らせたのであろう。まさかこの文章が半世紀以上の知名度を保つとはつゆ思わず、読者との間の了解済みのこととして、あえて不正確な記述をしたのであるというわけだ。

 そしてそういう「文学方面」をあまり研究していなかった若造の私は、「なんて不正確な記述だ!」と思ってしまったというわけだ。

3.とはいえ若者には危険な文章であることに違いない

 そういうわけでこの文章への評価は、私の中で「前半100点後半20点」ぐらいまできた。

 とはいえやはりそうした時代状況を知らない若者が「これは素晴らしい文だ」と年長者に紹介され一字一句鵜呑みをするという事態は、やはり危険である。

 『戦争責任論の盲点』の共産党への誹謗を鵜呑みにすると、「ファシズムによる民衆への被害を98%減らせるものの、勝敗でいえば抵抗運動の側が惜敗してしまう可能性のほうが50%より僅かに高い」という抵抗運動をしない大人に育ってしまうだろう。

 昭和天皇への誹謗を鵜呑みにすると、「主権者でなくなることなんて、なんの損でもない」と思い、主権を君主や貴族や外国に移譲することが平気な民へと育ってしまうことであろう。