「安倍晋三殺害事件の動機は宗教団体への恨みなので、民主主義への挑戦ではない」という意見について

 前回の記事の続編である。前回は「故安倍晋三氏が「元総理」や「参議院議員選挙の応援演説家」である以前に現役の衆議院議員であることを思いだせ!」という理由で、あれは民主主義への挑戦だったと主張した。

 今回は「それでも動機はあくまで宗教団体への恨みだから、民主主義とは無関係」という意見に対して二の矢を放つ。

 時代や国によっては当てはまらないケースも稀にあるが、現代日本を含む先進民主主義諸国では、「政党」の他に「圧力団体」というものが存在して良いことになっている。

 そしてどの政治家がどの圧力団体と手を組むかというのは、高度に政治的な問題である。

 ゆえに、ある団体が気に入らないという理由からそれと手を組んだ政治家を殺して困らせてやろうというのは、やはり現代的民主主義の根幹を揺るがす行為である。

 もしもこうしたテロが民主主義への挑戦として厳しく糾弾されず、単なる恨みがましい一私人の宗教問題として評価されてしまうならば、今回軽視された殺害の類似行為がその分だけ多く流行してしまう。

 「農協に恨みがあり弱体化させたいので、農協の支援を受けた政治家は殺す」が農業問題となり、「医師会に恨みがあり弱体化させたいので、医師会の支援を受けた政治家は殺す」が医療問題となり、日本民主青年同盟のせいでX大学で〇派が伸びず悔しいから、彼らに協力的な政党の構成員は全員殺す」は学生問題となってしまう。

 本当に「あの殺人は政治問題ではなく、ゆえに民主主義への挑戦ではない」と言い張りたい人は、完全な快楽殺人鬼がたまたま通りすがりの政治家を政治家とは知らずに殺すような事件が起きるまで、じっと我慢してみてはどうだろうか?