移民急増の是非をめぐる議論では、「先代先住民族」の意見も聞きたい。
最近日本中を賑わしている話題の一つに、「入国・永住・帰化のハードルを下げて移民を急増させるか否か?」というものがある。
この議論に登場する論客の大半は、今後「先住民族」の立場になるかもしれない大和民族内部の賛成派と反対派であり、たまに帰化のハードルが高かった時期に帰化した元外国人からの意見が聞かれるだけである。
しかし私が本当に参考にしたい意見は、「先代先住民族」の方々の意見である。
「先代先住民族」とは、かつて大和民族の大量移入によって故郷で少数派に転落した方々である。典型例としてアイヌ民族がいる。
「我々も、後から来た数に勝る大和民族との融和で非常に苦心したんだから、大和民族も今度は移民の受け入れ側になって我慢しなさい」という方が多数派なのか、または「我々はこの数百年間、大和民族との融和作業だけで随分苦労されられてきた。その上また大和の勝手な多数決原理により、体験したこともない別の民族との共生を強制させられたら、たまったものではない」という方が多数派なのか、はたまた大多数はほぼ中立なのか、まずは聞いてみなければ分からない。
まずは先代の意見を聞こう! それこそが本当の意味で、「移民」について考え始めるスタート地点になるはずだ。
「ドイツに学べ」への反省論が出てきたが「我々がガザの悲劇を拡大した」の視点が弱いのが残念。第二次世界大戦の同盟相手選びの「東アジア限定の反省」に酷似。
1.「ドイツに学べ」への反省の質的不足
最近のイスラエルのガザ及び周辺諸国への過酷な姿勢に対してドイツが寛容であることが、日本の左派の多数派の利害と衝突し、「ドイツの方が日本より第二次世界大戦を反省しているので、日本はドイツに学べ」論への自己批判が聞こえてきた。
しかしその「反省」が、自身の見識の狭さという能力面での問題や、日本の国論に悪影響を与えたという面での問題に留まっているというのは、やはりまだまだ見識が狭いと言わざるを得ない。
日本の左派の多数派が「西ドイツは戦後処理を日本に学んで、国防軍をせめて自衛隊に降格しろ」と言うのをやめてドイツを称え始めた事は、ドイツの世論が「我々のやり方こそが、戦後の日本より正しかったのだ」という方向に向かうことにつき、微力なりとも一助にはなったことであろう。
そしてドイツが既存の方針に自信を持ったことが、やはり微力なりともイスラエルの暴走に一役買った事であろう。
そういう地球規模の反省が無いのは、非常に残念である。
2.もう一つの「ドイツに学べ」への反省に酷似
そしてこれは、第二次世界大戦の同盟相手選びにおける「東アジア限定の反省」に酷似している。
第二次世界大戦前夜における同盟相手選びにおいて、大日本帝国は「ドイツに学べ」論に動かされてドイツを選んだ。
この件について一応の「反省」をしている者は極右から極左まで広く見られる。
しかし「ドイツに学んだせいでXに迷惑を掛けてしまった。これからは気をつけよう」のXに代入される存在は、「昭和天皇」や「日本国民」や「周辺諸国民」であることがほとんどであり、視野が日本の作戦領域に限定されているのが現状である。
「松岡外交がドイツを助長し、それに不満を持たなかった日本の世論が一層ドイツを助長したせいで、東欧で様々な悲劇を生んでしまったので、今後は気をつけよう」という反省をしている人はほとんどいない
そしてこの無反省が二度目の「ドイツに学べ」の悲劇を生む一助になったとも言えるだろうから、「自分自身は二度目の「ドイツに学べ」を主張していないぞ。むしろ批判的な立場だったぞ」という人の大半もまた、この悲劇を偉そうに他人の失敗談と見るべきではないのである。
「ランボーたち」の大半も、どうせ優秀な文官に感謝していない。
「ベトナム戦争中は英雄だったのに、帰還したら待遇が悪かった」という主人公の憤懣を描いた『ランボー』という映画がある。
こういうタイプの「元・乱世の英雄」は世界中の様々な時代の「戦後」に登場し、同情を集め続けている。『戦争は女の顔をしていない』や「天下統一後に粛清されていった武官」等である。
しかしその人達自身のほうで「私風情がこのような高価な武器を扱わせて貰えるのは、立派な文官の皆様が平時から毎日汗水垂らして組織を運営し、今日にあっても補給に気を配って下さったからだ」と感謝しながら戦ったという記録を見た事は、殆ど無い。「蕭何を戦功第一と評価した劉邦」等の例外中の例外を稀に見る程度である。
そういう意味では、「お互い様」である。
だから私は「こういう元・乱世の英雄の不満分子が増えないように気を配るべきだ」という気分にはなるが、彼等に同情する事も殆ど無い。
久々に全世界公開師弟対決。
久々に師匠と再会できたので(参照→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/2024/03/30/131246)、当ブログの本来のメインコンテンツであるバックギャモンの全世界公開師弟対決をしました。

写真にあるのは師匠がアメリカから輸入したボード。自分はこんなに高級なボードで戦うのは初めてです。
五点先取の戦いをし、三戦で終わりました。
師1 ー 我0
師3 ー 我0
師5 ー 我0
今回「バックギャモンは初」という見学者X氏もいたのですが、三戦ともそれぞれ特徴のある戦いになり、非常に良い演武になりました。
「懲役の冤罪は、金で多少は償える。死刑の冤罪は、どうしても償えない」というありふれた主張には、「多数派の死生観に基づく場合」という限定が必要。
「懲役の冤罪は、金で多少は償える。死刑の冤罪は、どうしても償えない」という有名な主張がある。
大して批判されていないところを見るに、多数派の死生観には合致していそうである。
私個人の死生観にも、概ね合致している。
しかしそれを誰にも当てはまる真理であると言い張る姿勢には、一種のカルト宗教的な傲慢さが感じられる。
例えば、「生きている間、聖地Aへの巡礼を20年以上しなかった時期がある者は、どんな理由があっても死後に8兆年間究極の責め苦を受け続ける。なおそれを避けようとして自殺をした場合、責め苦は9兆年だ」という教義の宗教があるとする。以下、「X教」と仮称する。
X教の熱心な信者が冤罪で終身刑になり、タイムリミットの20年間が経過してしまったとすれば、X教の死生観に従う限り、最早金で解決出来る問題ではない。仮に1兆円貰っても、その信者は「冤罪のまま死刑執行でもされていたほうがマシだった」と思うであろう。
勿論、国家には一定の統一的なルールが必要なので、あらゆる宗教に完全に配慮した制度というものは作りようがないから、「X教信者みたいな方々は人数が少ないので我慢してもらって、死刑を廃止して終身刑を導入しよう。それが悔しいならX教のほうで努力をして布教をして信者を増やし、最終的には選挙で現在の多数派に逆転してみせろ」という立場を採るのは、決して悪い事ではない。
だが「X教」みたいな立場も有り得るという事をそもそも最初から想定すらせず、暢気に「懲役の冤罪は、金で多少は償える。死刑の冤罪は、どうしても償えない」を普遍的真理だと思い込んだまま大声でそう叫んでいる人を見ると、「うちの宗教以外は全部邪教なので無視しろ」というカルト宗教の幹部とキャラが被って見えてしまうのだ。
師匠と予定より早く再会。

当ブログに何度も登場してくれた「師匠」と、久々に再会。
「(10年ぐらい先に)再会できたら」ぐらいの気構えでいたのですが(参照→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/2020/10/02/175500)、意外な形で早く再会できました。

