「ランボーたち」の大半も、どうせ優秀な文官に感謝していない。
「ベトナム戦争中は英雄だったのに、帰還したら待遇が悪かった」という主人公の憤懣を描いた『ランボー』という映画がある。
こういうタイプの「元・乱世の英雄」は世界中の様々な時代の「戦後」に登場し、同情を集め続けている。『戦争は女の顔をしていない』や「天下統一後に粛清されていった武官」等である。
しかしその人達自身のほうで「私風情がこのような高価な武器を扱わせて貰えるのは、立派な文官の皆様が平時から毎日汗水垂らして組織を運営し、今日にあっても補給に気を配って下さったからだ」と感謝しながら戦ったという記録を見た事は、殆ど無い。「蕭何を戦功第一と評価した劉邦」等の例外中の例外を稀に見る程度である。
そういう意味では、「お互い様」である。
だから私は「こういう元・乱世の英雄の不満分子が増えないように気を配るべきだ」という気分にはなるが、彼等に同情する事も殆ど無い。
久々に全世界公開師弟対決。見学者も奇しき縁者。
奇しき縁の御蔭で久々に師匠と再会できたので(参照→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/2024/03/30/131246)、当ブログの本来のメインコンテンツであるバックギャモンの全世界公開師弟対決をしました。
写真にあるのは師匠がアメリカから輸入したボード。自分はこんなに高級なボードで戦うのは初めてです。
五点先取の戦いをし、三戦で終わりました。
師1 ー 我0
師3 ー 我0
師5 ー 我0
今回「バックギャモンは初」という見学者X氏もいたのですが、「X氏もまた師匠の知り合いである」という知識を得る前から私はX氏と奇しき縁があり、数日前に会話の中で偶然にもX氏が師匠とも縁があることを知りました。
いやはや、なんという奇跡の出会いをした三人でしょう。これは折角なので大切にしたいですね。
「懲役の冤罪は、金で多少は償える。死刑の冤罪は、どうしても償えない」というありふれた主張には、「多数派の死生観に基づく場合」という限定が必要。
「懲役の冤罪は、金で多少は償える。死刑の冤罪は、どうしても償えない」という有名な主張がある。
大して批判されていないところを見るに、多数派の死生観には合致していそうである。
私個人の死生観にも、概ね合致している。
しかしそれを誰にも当てはまる真理であると言い張る姿勢には、一種のカルト宗教的な傲慢さが感じられる。
例えば、「生きている間、聖地Aへの巡礼を20年以上しなかった時期がある者は、どんな理由があっても死後に8兆年間究極の責め苦を受け続ける。なおそれを避けようとして自殺をした場合、責め苦は9兆年だ」という教義の宗教があるとする。以下、「X教」と仮称する。
X教の熱心な信者が冤罪で終身刑になり、タイムリミットの20年間が経過してしまったとすれば、X教の死生観に従う限り、最早金で解決出来る問題ではない。仮に1兆円貰っても、その信者は「冤罪のまま死刑執行でもされていたほうがマシだった」と思うであろう。
勿論、国家には一定の統一的なルールが必要なので、あらゆる宗教に完全に配慮した制度というものは作りようがないから、「X教信者みたいな方々は人数が少ないので我慢してもらって、死刑を廃止して終身刑を導入しよう。それが悔しいならX教のほうで努力をして布教をして信者を増やし、最終的には選挙で現在の多数派に逆転してみせろ」という立場を採るのは、決して悪い事ではない。
だが「X教」みたいな立場も有り得るという事をそもそも最初から想定すらせず、暢気に「懲役の冤罪は、金で多少は償える。死刑の冤罪は、どうしても償えない」を普遍的真理だと思い込んだまま大声でそう叫んでいる人を見ると、「うちの宗教以外は全部邪教なので無視しろ」というカルト宗教の幹部とキャラが被って見えてしまうのだ。
師匠と予定より早く再会。
当ブログに何度も登場してくれた「師匠」と、久々に再会。
「(10年ぐらい先に)再会できたら」ぐらいの気構えでいたのですが(参照→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/2020/10/02/175500)、意外な形で早く再会できました。
「Xを叩いてYを放置するとは、このダブスタめ!」への、定跡よりも本質的な反論。
「Xを叩いてYを擁護するとは、このダブスタめ!」という発言は、前半の前提部分さえ正しければ後半の結論部分も大概は正しい。だから私もよく使うし、またよく支持する。
一方で「Xを叩いてYを放置するとは、このダブスタめ!」という発言は、攻撃対象が警察や検察の様な「平等に叩くのが義務である組織」であった場合等の特殊な例外を除けば、大概は無体な言い掛かりである。
それが言い掛かりであった場合における反論としては、「Aさんは全ての悪を平等に攻撃するという義務を背負っている訳でもなく、またそんな時間も能力も持っていない。YがXより悪いと君が本当に思ったなら、君自身が勝手に動けばいいだろう」というのが、常識的で理性的な定跡である。この定跡的な論法は私もよく使うし、またよく支持する。
しかしこの定跡なんかよりも、もっと本質的な反論を私は知っている。
「トリプルスタンダードは世の中に溢れているのに、何故君はそれらを放置して、ダブルスタンダード風情への攻撃にかまけているんだい?」である。
『牙狼<GARO> ハガネを継ぐ者』第1~12話
『牙狼<GARO> ハガネを継ぐ者』を観始めたので、各話につきメモ程度の感想を書いていく。
第1話「創(はじまり)」
いきなりであるが、映像だけでは題名の「創」の読み方が不明である。
これに限らず、諸般の公式設定を公式ページ(https://garo-project.jp/garo_hagane/)で補完していく必要があるようであった。
しかし公式ページを読み過ぎると「このキャラクターのこのセリフは信用していい」等の設定まで判明してしまったりもするので、距離感が難しい。
「破滅ノ門」が開きかけてホラーが不自然に増殖中のクレアシティが今回の舞台。道外流牙はクレアシティに招かれるが、現地で戦ってきた白羽創磨という「ハガネ」の騎士には歓迎されていないようである。
第2話「兆(きざし)」
創磨が他の騎士を歓迎していない理由が判明する。三年前に行方不明になった父「ゴドウ」がいつでも帰ってこられるように、別の騎士がクレアシティの担当者になることを防ぎたかったらしい。
元ネタは明らかに『ゴドーを待ちながら』である。
終盤で流牙がかつてゴドウの必殺技を学んだという事が判明する。
第3話「鋼(はがね)」
ホラーが登場しない、おそらく低予算の回。
創磨の孤立や悩みが延々と描かれて終わり。
第4話「傷(きず)」
今回も創磨の孤立や悩みが延々と描かれる。
次回が雑魚ホラー大量発生の回であることが予想される終わり方。
第5話「悟(さとる)」
あるビルで破滅ノ門の影響で雑魚ホラーが大量発生したが、創磨の改心もあって主要メンバー全員で立ち向かうことが出来、事件は解決した。
今回の見所は「雑魚ホラーが日光を浴びるとどうなるのか?」がシリーズで初めて描かれたということである。「ホラーの活動は原則として夜」という設定だけは最初から語られてきたが、具体的にどの様に太陽に弱いのかが明かされたのは、記憶にある限りではこれが初。
第6話「眼(まなこ)」
キーアイテムである「常闇の石」を拾いにいくだけの話で、ホラーも次回での登場が示唆されただけ。
しかし常闇の石の所在を知っている「ラウル」という謎のキャラとの模擬戦がかなり丁寧に描かれていたので、戦闘シーンに不足無し。
第7話「惨(いたみ)」
第2話以来実に久々に通常のホラー「ガエラ」が登場する。しかも魔戒法師や魔戒騎士を食べて自己強化をし、三つの形態を見せてくれる。今までの予算の節約はこのためにあったのかもしれない。
ガエラ打倒後は、主要メンバーは前回入手した「常闇の石」を使って迷路のような異世界へと行く。
第8話「閃(ひらめき)」
迷路世界から次の破滅ノ門へと行けるようになったようであるが、最後に主要メンバーから裏切り者が出た可能性が高い描写がなされ、次回への興味がそそられる。
今回はゴドウの下で流牙が修行をしていた時期の回想シーンが大半。
第9話 「門(もん)」
いきなり題名が音読みになった。
前回示唆されたムツギ法師の裏切りは真実であり、布道シグマと同じく「理想が高すぎて、ホラーのいない世界を無理に創ろうとしている」タイプの悪であった。
その計画を三年前にゴドウの捨て身により阻止されたので、今度こそ破滅ノ門と創磨の力を悪用して計画を達成しようとしているようであった。
なお、自分の弟子のコヨリ法師が妨害を乗り越えて流牙を連れて計画を阻止しに来たのは計算外だった様である。
第10話「惑(まどう)」
終盤で破滅ノ門の封印は解除されたようであるが、創磨は流牙との戦いの中で正気に戻る。
ムツギは流牙やコヨリなんか連れてこなければ、もっと計画がうまくいったのではあるまいか?
第11話「誘(いざない)」
破滅ノ門から出てきた禁断の果実を食べてムツギは強大化し、クレアシティの悪人だけを無力化する。
食べると全知全能になるとの噂もあった禁断の果実であるが、初撃では都市一つを変えただけであった。
陰我には人類を発展させる原動力もあると信じる流牙は、ムツギの理想を否定して戦いを続ける。
見ていた私は、「本当に、殺し合ってどちらか一方の主張が残るべき状況だろうか?」と疑問に思った。社会実験的な意味を込めて、陰我の無い人間ばかりが暮らすムツギの理想が実現した都市が幾つかあっても、流牙の目指す人類の発展にとっては大した弊害ではあるまい。幸いにも赤い仮面の男とは違って、ムツギには世界全体を一気に変える力は無かったのであるから、まずは話し合いでの住み分けを目指すべきであったと思う。
最終的にムツギは流牙たちに敗れ、黒幕の自称「禁断の果実に宿りし者」がその体を乗っ取り、ラストバトルを挑んできた。
第12話「継(つなぐ)」
ムツギが変貌したホラーは「闇」を操れるようであったが、光も闇もほぼ自在に操れる流牙の前に呆気なく敗れた。
「光と闇の一方の属性に惹かれすぎている者よりも、両方を使いこなせる者こそが偉大」という、今作のテーマ通りの前半であった。
この前半戦で牙狼の鎧は『-GOLD STORM-翔 劇場版』の冒頭と同じく浄化しないと機能しない状態になってしまうが、第7話で死んだ「ハガネ」の魔戒騎士の遺品の鎧を纏うことで、流牙は破滅ノ門との後半戦にも勝利する。
これも「鎧の色と使命とは、あまり関係がない」という今作のテーマに沿った戦いであった。
牙狼シリーズのアンチテーゼ的な側面の強かった本作であるが、無難かつ力強く、もう一本の「王道」を切り開いたというのが、私の評価である。
『サクラ大戦 漫画版』第二部の紹介
第一部はこちらをどうぞ→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/20130926/1380165723
第1巻
原作ゲーム後半通り、葵叉丹が正月に決起する。
ただし幹部の黄昏の三騎士の猪・鹿・蝶は、叉丹の反魂の術で復活した黒之巣死天王たちという改変がされている。
原作の黄昏の三騎士は登場の背景事情が一切語られなかった連中であり人気もあまり無い。だから彼らを無理に独自設定で深掘りをするよりは別人に取って代わらせるというのは、誰でも思いつきそうな判断である。
ただしその「別人」の三幹部として、『サクラ大戦TV』における復活の死天王たちの設定とデザインを使ったのは、見事な着想である。
これに限らず、多様な媒体で展開していった関連作品を上手に元ネタにしているのが、本作品の魅力である。先行作品への敬意も感じられ、また原作本編以外の『サクラ大戦』の世界を幅広く受容してきた層へのサービス精神も感じられる。
終盤では『サクラ大戦II』で出てきた予算不足の話題が登場し、物語の進捗の遅さと相俟って「作者は『II』の漫画化までは諦めたのかもしれない」と不安にさせられた。
第2巻
第1部では黒之巣会の手強さの性質を変えたために描かれなかった、「紅のミロクによる帝国華撃団の本拠地の発見」という原作ゲーム前半の物語が、ミロクの死体を再利用した漫画版の「蝶」を使って再現されていた。
死天王と黄昏の三騎士を同一人物にしたことの効果が、このような形でも出てきたのは予想外であった。
他の作品ではほとんど描かれることの無い夢組が登場し、かつその戦い方や敵が『サクラ大戦TV』へのオマージュになっていたのも、個人的に高評価である。
本拠地を発見されたため猪鹿蝶の全員が帝国劇場に攻めてくる。この時期の叉丹一味は前半の黒之巣会と違って幹部が一人ずつ出てくる必然性がほとんど無いので、原作ゲームより自然な話の流れである。
第3巻
猪鹿蝶との戦いは概ね引き分けに終わり、光武は完全に壊れてしまう。
原作ゲームでは「いきなり敵の強さがインフレしたから」と説明されていた搭乗機の交代であるが、本作では降魔は序盤から出現していてしかも極端に強かったわけではないので、これまた自然な話の運び方と言える。
後継機の「神武」もいきなり登場させるのではなく、山崎真之介に対する複雑な感情を抱えた科学者としての李紅蘭が、神崎重工で開発協力をする物語が丁寧に描かれていた。
神武の開発に李紅蘭が苦戦する理由もしっかり作られていた。降魔戦争中に神武を設計した山崎真之介が、命と引き換えに魔神器で霊力を一気に放出出来る真宮寺一馬の能力に憧れていたため、似たような暴走が可能なように意図的に設計されていたからである。その設定の説明をするという自然な形で、そろそろ必要となってきた藤枝あやめと山崎真之介の前日譚も語られていた。
このように単に先行する『サクラ大戦』の関連作品へのオマージュを鏤めるだけでなく、それらを有機的な形で纏め上げているのが、やはり本作の最大の魅力である。
また光武と神武の繋ぎとして「三色スミレ」が投入される。これは執筆当時の最新の作品であった『サクラ大戦 太正浪漫学園譚』へのオマージュである。
なお第9話と第10話との間の62ページのイラストでは、『サクラ大戦 奏組』へのオマージュが見受けられた。これは当時他の会社で連載中の漫画であったので、流石に本編には盛り込めなかったというわけだろうか?
第4巻
舞台版出身のダンディー団が登場し、さらに48ページでは彼らが「風の噂に聞いたんだ」というギリギリ許されそうな形で、当時はタイムリーであった『奏組』へのオマージュを実現している。
藤枝あやめの降魔化の進捗が思わしくない葵叉丹は仕方なく力攻めを仕掛けてくるが、三色スミレに手間取っている内に神武の改造が間に合ったので撃退される。
葵叉丹はもっと早く攻め込んでいれば勝っていたかもしれないので、この巻ではほぼ完全に失敗者であったと言える。
巻末の番外編では旧星組の二人が「未来からやってきた」という形で登場しているが、これは流石に『サクラ大戦 漫画版 COLLECTION』での公約を果たしたものとは認めがたい。
第5巻
「降魔は帝都への怨念の具現化なので、帝都から離れると弱体化する」という設定が明かされる。
しかしそんな弱体化した降魔でも、数の暴力で川崎を襲い、完成間近であった神武六機を大破させてしまう。
前巻では単なる敗北者であった葵叉丹であるが、持ち帰った「改造された神武は手強い」という情報はしっかり活用してきたことになる。
米田一基が先走って葵叉丹に一騎打ちを仕掛けたため、本人は重傷を負い、藤枝あやめは死亡した上に死体も持ち去られてしまう。
原作と違って自己の降魔化を抑えていたあやめであったが、死亡からの叉丹による反魂の術により、結局原作と同様に叉丹側の駒となる。そして切り札の魔神器も奪い去る。
繰り上げ式に大神一郎が帝国華撃団の司令代行となったため、月組隊長の加山雄一が久々に大神の前に出現して指揮下に入る。
未公開エピソード
5巻末から6巻冒頭の間に未公開エピソードがあるので、このリンク先(https://sakura-taisen.com/archives/goods/kodansha25/)から読む必要がある。
この未公開エピソードによると「太正十三年三月」の「赤キ月ノ夜」に聖魔城が隆起したことになっている。
なお現実の地球の日本では「大正十三年二月二十一日」が皆既月食であった(参照→https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/eclipsey_l.cgi?eclid=19241)。
最終決戦の日付を原作に合わせたいがための改変なのであろうが、珍しい天文のイベントがこれだけ近傍にあったのであるから、暦や天体の運行のほうを改変するのではなく、物語のほうに一工夫加えるべきであったというのが、私の立場である。
未公開にした理由は、私と似たような批判者が多かったからなのかもしれない。刊行された漫画だけを読んだ読者には、最終決戦の日付が曖昧になったというわけだ。
第6巻
聖魔城の前に絶対的に不利に見えた帝国華撃団であったが、重傷後に自然な形で行方をくらましていた米田一基が、川崎から空中戦艦ミカサで駆け付ける。そこには密かに修理に成功していた神武も搭載されていた。
米田はもしも第5巻で大怪我をしていなければ、急に姿を消したことを敵に不審がられ、このような
第4巻で大敗北したかに見えた葵叉丹がその敗北すら勝因にして第5巻では優勢になり、華撃団側はその劣勢の事情すらバネにして第6巻で再起するというこの展開は、非常に私好みである。
華撃団側は、ほぼ原作通りにカンナ機が囮になって他の神武が聖魔城の内部に突撃する。
葵叉丹側は内輪揉めの結果、猪・鹿・殺女の変則構成の三名が時間稼ぎの前衛となり、蝶が葵叉丹の近侍として残った。これが次の巻以降にどんな吉凶をもたらすのか、不安と期待が渦巻く。
第7巻
第一部では活用されなかった原作ゲームの「白銀の羅刹は召喚術による各個撃破が得意」という設定が、再生羅刹の「猪」を使って活用される。この戦いでは『サクラ大戦TV』の「羅刹は生身の格闘でも霊子甲冑を圧倒出来る」も活用される。
猪・鹿は記憶を取り戻すが花組の前に敗死し、蝶は記憶を取り戻して葵叉丹に挑むも粛清される。
殺女は聖魔城の主力兵器である霊子砲の防衛を担当しており、大神一郎との一騎打ちを受け入れる。
第8巻
殺女について「実はこの時点までにカンナと出会って記憶が戻っていた」という設定が明かされる。これ以上葵叉丹に利用されないために、話し合いの末に殺女は大神一郎に切られる。
悲劇の末に花組が一歩リード出来たかのような内容であったが、葵叉丹は殺女の死で「人」としての執着心がこれで消え去ったことで、聖魔城の力との相性が良くなり巨大化する。
原作では超展開に思えた巨大サタンの登場であるが、本作では実に説得力のある展開の中で登場してきた。しかも単なる独自設定ではなく、原作では語られなかっただけの裏設定だとしても十分有り得る内容である。
第9巻
花組もミカサも最後に捨て身の攻撃をして、サタンに一矢報い、霊子砲も破壊する。これで聖魔城は暴走し、「霊力より強いから」という理由でサタンが活用していた妖力は制御を失い、サタンの身を遠からず滅ぼせる状態となる。
暴走してサタンを苦しめる妖力のイメージは、『サクラ大戦TV』の復活版死天王のデザインを活用している。ほぼ活躍出来ないまま粛清されたかに見えた紅のミロクの、最大の見せ場とも言える。
また原作版では超展開の扱いをされていた天使版のあやめも、「葵叉丹が殺女を作る際に封印していた部分が、肉体の消滅と同時に解放された」という、これまた非常に説得力のある形で登場する。
これで帝国華撃団側の勝利は一応確定する。
しかしここで単に撤退するだけでは負の感情のエネルギーは残り、問題の先送りになってしまうという話になる。
そこで花組は天使版のあやめの助力の下、サタンに空中戦を挑み、山崎真之介の魂を剣で浄化するという形で戦いをベストエンディングへと導く。
この最後の空中戦も原作では超展開に思えたものだが、これならば実に自然である。