幸福の科学の映画『呪い返し師—塩子誕生』の挿入歌『塩子登場のテーマ』の歌詞の時系列の問題

 幸福の科学の映画『呪い返し師—塩子誕生』の挿入歌のうちの一曲である『塩子登場のテーマ』を耳にし、時系列に疑問を持ったので書いておく。なお映画自体の出来や他の歌の出来や『塩子登場のテーマ』の曲の出来については一切論じない。

 この歌詞は、「来るぞ 来るぞ 来るぞ」で始まり、次に「来たぞ 来たぞ 来たぞ」と続く。ここまでは謎の存在が徐々に近づいて来たことを示唆する雰囲気がよく出ており、中々良い。

 そしてその次に「とうとう塩子が」と語られ、近づいて来たものが何であるかが判明する。これも良い。

 ところがこの「とうとう塩子が」に続く述語が「やって来る」なのである。すでに「来た」と三度も語られていた者が、まだ来ていないことにされてしまっている。

 勿論屁理屈をつければ、「「来たぞ」の主体は塩子の先駆の何者かである」とか「「来たぞ」と叫んだ塩子の第一から第三の被害者の数キロメートル遠くにいた第四の被害者が脅えて叫んだのが「とうとう塩子がやってくる」なのだ」とか言い張れない事もないが、そういう無理な解釈の場合は益々詩としての魅力が死んでしまうであろう。


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深く関わった人たちには、末永く健康に生きていてほしいと思う。

 人生でやりたかったことは99%やり終え、「あとはいつ死んでも平気だ。難病でも事故でも何でも来い」とどっしりと構えていた。

 しかし親戚が急病でひょっとすると私より先に死ぬかもしれないと一報が入るとオロオロしてしまうし、弟弟子が詐欺に遭ったと聞くと非常に残念に思ってしまう。

 人生で深く関わった人たちには末永く健康に生きていてほしいと思う。

 あまり彼らの心配とかをしたくないので、最近では「まず私にさっさと御迎えが来ますように」とばかり祈っている。

振り返ってみれば、自利は100点中99点、利他は2点中1点の人生だった。

 あと10年以上生きるかもしれない一方でいつ人事不省になってもおかしくないという曖昧な状態なので、面倒でも今のうちに人生を振り返ってみる。

自利 99/100点

 未成年の頃に私が立てた人生の目標は、極めて壮大な上に手段も暗中模索であったが、偶然の作用によって99%達成された。

 詳細はこのリンク先(https://gureneko.hatenadiary.org/entry/2020/02/17/190235)に書いた通りである。

利他 1/2点

 私が大学生二年生の時に立てた世の中への貢献の目標は、極めて低いものであり、遠大な目標を持った志士達に馬鹿にされ続けた。

 一年生の頃に一丁前に思想系の雑誌を左右問わず読みまくり、「これらの立派な著述家共の九割ぐらいには一生かかっても追いつけなさそうだ」と思い、この時点で世を政治的に変える等という目標は放棄してしまった。

 そこでそういう立派な方々の露払い程度の事をして人生を終えようと思い、「私風情から見ても流石におかしい集団・人・文」を批判することにしたのである。

 「集団・人・文」としたのは、立派な集団にもクズみたいな構成員が混じっており、立派な人でも稀に駄文を書くからである。勿論逆も然りである。

 その小さな目標のために走り続けた成果の一つがこのブログであった。

 盲信しては危険な駄本に対してそれなりに警鐘を鳴らせたと思う一方、大ポカもやらかした(参照→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/2020/04/29/194028)。

 だから「2点満点」という低い目標に対してすら、満足とまではいかなかった。

ブログの題名に「終活中」と入れました。古い記事の整理も一段落しました。

 二年前に「過去の記事で舌足らずだったものについては、原則として削除をする」と宣言*1して以来、その作業をゆっくりと続けてきました。

 短い注釈程度で済む場合や、「はてなスター」を1個でも貰った記事は、全体を削除しませんでした。そういう「自己評価は低いけど残す」記事の選別の作業に予想外な程時間を取られていました。

 さて最近私は残念な事に様々な事情を総合的に判断して「いつブログの加筆が出来なくなってもおかしくない」となったのですが、だからこそ終活の一環として、締め切り間際に張り切る作家の如く作業を加速させ、見事に一段落させました。

 あくまで「一段落」に過ぎないので、また徒然なるままに加筆・修正をするかもしれません。

「戦争体験を語り継いでくれる子孫」を育成できたかもしれない方法を考えた。今さら手遅れの手法だが。

 「第二次世界大戦の体験を子孫に語り継いで欲しかったけど、うまくいかなかった」という老人の嘆きにしばしば出会う。

 そこで「戦争体験を語り継いでくれる子孫」を育成できたかもしれない方法を考えてみた。

 それは日露戦争第一次世界大戦を体験した自分の先祖が生きているうちに、その体験談を克明に聞き取り、まずその伝授の伝統を作る」というものである。

 自分が先祖の戦争体験を語り継がない立場であるというのに、自分の子孫には自分の体験を語り継いで欲しいなどというのは、身勝手だからだ。

 この方法自体は今や絵空事であるが、他の何かを子孫に語り継がせたいと強く思っている50代ぐらいまでの人には、多少の参考にはなるだろう。

「安倍晋三殺害事件の動機は宗教団体への恨みなので、民主主義への挑戦ではない」という意見について

 前回の記事の続編である。前回は「故安倍晋三氏が「元総理」や「参議院議員選挙の応援演説家」である以前に現役の衆議院議員であることを思いだせ!」という理由で、あれは民主主義への挑戦だったと主張した。

 今回は「それでも動機はあくまで宗教団体への恨みだから、民主主義とは無関係」という意見に対して二の矢を放つ。

 時代や国によっては当てはまらないケースも稀にあるが、現代日本を含む先進民主主義諸国では、「政党」の他に「圧力団体」というものが存在して良いことになっている。

 そしてどの政治家がどの圧力団体と手を組むかというのは、高度に政治的な問題である。

 ゆえに、ある団体が気に入らないという理由からそれと手を組んだ政治家を殺して困らせてやろうというのは、やはり現代的民主主義の根幹を揺るがす行為である。

 もしもこうしたテロが民主主義への挑戦として厳しく糾弾されず、単なる恨みがましい一私人の宗教問題として評価されてしまうならば、今回軽視された殺害の類似行為がその分だけ多く流行してしまう。

 「農協に恨みがあり弱体化させたいので、農協の支援を受けた政治家は殺す」が農業問題となり、「医師会に恨みがあり弱体化させたいので、医師会の支援を受けた政治家は殺す」が医療問題となり、日本民主青年同盟のせいでX大学で〇派が伸びず悔しいから、彼らに協力的な政党の構成員は全員殺す」は学生問題となってしまう。

 本当に「あの殺人は政治問題ではなく、ゆえに民主主義への挑戦ではない」と言い張りたい人は、完全な快楽殺人鬼がたまたま通りすがりの政治家を政治家とは知らずに殺すような事件が起きるまで、じっと我慢してみてはどうだろうか?

「安倍晋三殺害事件は、参議院議員選挙を妨害した民主主義への挑戦か、それとも宗教問題なのか?」という馬鹿な問いへの答え

 二日前、参議院奈良選挙区の某候補者を応援中の安倍晋三氏が銃殺された。

 そしてその事件の容疑者が政治問題ではなく宗教問題を動機として語ったという情報が流れたため、安倍晋三殺害事件は、参議院議員選挙を妨害した民主主義への挑戦か、それとも宗教問題なのか?」という馬鹿馬鹿しい問いが議論されるようになってしまった。

 私に言わせれば、殺害により昨年の衆議院議員選挙の山口4区の有権者の判断を踏みにじった時点で、すでに民主主義への重大な攻撃である。

 山口4区の有権者の多数派は、「候補者の中では安倍晋三氏こそが国会で一票を行使する自分たちの代表に相応しい」と考えて国会に送り出したのである。それを任期半ばで殺したのであるから、当然民主主義への攻撃である。だから仮に容疑者が奈良の参議院議員選挙有権者の誰にも迷惑を与えない形で殺害していたとしても、昨年の衆院選の民意が暴力で棄損された時点で、もう民主主義は相当程度毀損されたのである。

 まずそれを大前提とした上でならば、「さらにそれに加えて参議院議員選挙の結果的妨害もあったが、これはどの程度民主主義に対する毀損の上乗せをしたと言えるか?」について議論をする意味も多少あるだろう。しかし衆院選山口4区の民意を完全に無視したような問いの立て方は、論外もいいところである。

 おそらくそういう馬鹿な問いをした人の多くは、頭の中が参院選だけで熱くなってしまっていて、現役の衆議院議員を単なる応援演説の弁士程度に思ってしまっていたのであろう。猛省を促したい。