「懲役の冤罪は、金で多少は償える。死刑の冤罪は、どうしても償えない」というありふれた主張には、「多数派の死生観に基づく場合」という限定が必要。

 「懲役の冤罪は、金で多少は償える。死刑の冤罪は、どうしても償えない」という有名な主張がある。

 大して批判されていないところを見るに、多数派の死生観には合致していそうである。

 私個人の死生観にも、概ね合致している。

 しかしそれを誰にも当てはまる真理であると言い張る姿勢には、一種のカルト宗教的な傲慢さが感じられる。

 例えば、「生きている間、聖地Aへの巡礼を20年以上しなかった時期がある者は、どんな理由があっても死後に8兆年間究極の責め苦を受け続ける。なおそれを避けようとして自殺をした場合、責め苦は9兆年だ」という教義の宗教があるとする。以下、「X教」と仮称する。

 X教の熱心な信者が冤罪で終身刑になり、タイムリミットの20年間が経過してしまったとすれば、X教の死生観に従う限り、最早金で解決出来る問題ではない。仮に1兆円貰っても、その信者は「冤罪のまま死刑執行でもされていたほうがマシだった」と思うであろう。

 勿論、国家には一定の統一的なルールが必要なので、あらゆる宗教に完全に配慮した制度というものは作りようがないから、「X教信者みたいな方々は人数が少ないので我慢してもらって、死刑を廃止して終身刑を導入しよう。それが悔しいならX教のほうで努力をして布教をして信者を増やし、最終的には選挙で現在の多数派に逆転してみせろ」という立場を採るのは、決して悪い事ではない。

 だが「X教」みたいな立場も有り得るという事をそもそも最初から想定すらせず、暢気に「懲役の冤罪は、金で多少は償える。死刑の冤罪は、どうしても償えない」を普遍的真理だと思い込んだまま大声でそう叫んでいる人を見ると、「うちの宗教以外は全部邪教なので無視しろ」というカルト宗教の幹部とキャラが被って見えてしまうのだ。