小室直樹著『日本人のための宗教原論』(徳間書店・2000)

日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか

日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか

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 世界で日本人だけが宗教オンチだからカルト宗教がはびこるのだと散々貶した上で、しっかり宗教を学べばカルトに騙されないと主張した書籍である。「はじめに」と第1章におけるこうした自信満々の態度での日本人批判と本書の自薦を立ち読みしている内に、ついうっかり購入してしまった人も多いかと思われる。私もその一人である。だが帰宅するまでに大概の人は、カルトの惨禍に苦しんでいるのは日本人だけではない事に気付くであろう。その時の「あ、騙された!」という感情と反省点をしっかり記憶しておけば、それから先の人生でカルト宗教に騙される確率は大いに減るであろう。その意味では確かにカルト宗教に騙されないための一冊である。
 また著者の主張する「本当のX教」の定義が余りにも狭すぎるので、世界各地のカルト問題に通じていない人でも、読み進める内に「本質から逸脱した教義を信奉しているのは別に日本人だけではないのではなかろうか?」という疑問がわいてくると思われる。
 しかも引用(?)される故事や宗教家・哲学者の発言には原則として出典が付されていないので、「著者の立場には賛同出来なくても勉強にはなる本」にもならない。
 話があちこちに飛び、しばらくして本題に戻ってくる時にそれを断るのを忘れたりもするため、非常に読み難いのも欠点である。
 以下、個別具体的な批判を述べる。
 3ページ、「世界の人々は、この世がどんなに苦しくとも、来世でよいところにゆくために努める。しかし、日本人に限って、この世が一番よくて来世なんかどうでもよいと独り合点しているのである。」とある。「日本人に限って」等と筆を滑らせなければ、「これは概論です。」という言い訳が出来たであろうに、興奮したせいなのか極論を言えば注目されると思ったせいなのかは知らないが、自分で退路を塞いでいる。実際の世界には、唯物論を基調とするイデオロギーの国もあるし、唯物論者も多数いる。一部の三流左翼がアジアの中の非常に狭い地域をアジアの全域であるかの如く見做す事はしばしば批判の対象になり、これをからかう目的で「特定アジア」という用語まで生まれたが、一部の三流宗教右翼の語る「特定世界」にも警戒が必要であろう。
 22ページ、「ヨシュア記」におけるアイの住民の皆殺しを「これがジェノサイド(民族鏖)事始。」としている。だがこれでカナン人が全滅した訳ではない。そしてもしも一つの都市の住民を全滅させるだけでジェノサイドが成立するのであれば、これ以前に「民数記」でバシャンの民が全滅させられているので、「事始」にはならない。
 24ページ、「そもそも明治以前には、仏教、キリスト教という用語も使われておらず、」とある。だが「仏教」という用語自体は古語にも存在する。今と意味が違うだけである。
 44ページでは「釈迦がある時代のインドに生まれた」事になっている。だが一般に釈迦の生誕の地は現在のネパール領であるとされる。確かにインド説もあるし、また「インド」という単語は時としてインド亜大陸全体を指すので、必ずしも絶対的に間違いとは言い切れない記述だが、やはり不適切ではあろう。
 53ページではヨーロッパで数百年前に死んだ尼僧が数年前にやっと列聖されたという例を挙げ、その理由を「神学者や科学者が調べに調べて間違いなく奇蹟を起こしたということが証明されるまでに、それだけかかったとのことだった。」としている。そしてこれ以前の全体的な文脈を見るにつけ、どうやら著者は生前に起こした奇跡が長年かけて証明されると列聖されると思い込んでいるらしいのである。だが実際のカトリックでは、列福・列聖のための調査の対象となる奇跡は、原則として死後に起こした奇跡に限られる。
 66ページでは涅槃に入った人について「三界に家なしどころか、六道界どこにも居場所はなく、」と書いている。だが六道全てを合わせて漸く三界の内の一つである欲界になるのだから、この「どころか」の使われ方はおかしい。
 また115ページでも「姦淫」について、「では、何が許されないセックスなのか。新約ではそれがさっぱりわからない。」とある。「マタイによる福音書」の第五章には許されないセックスの内容が複数列挙されているので、「さっぱり」は言い過ぎであろう。
 116ページ、「太古にできた五経孔子が解説、注釈をつけ、それに朱子が朱注をつけ、それにまた後世の学者が注疏(注釈につけた注)をつけた」事になっている。だが、儒教の伝説を信じたとしても五経の内で孔子が解説・注釈らしきものを付けたのは『易経』だけである。また孔子以後の五経の注釈者は朱子以前にも多くいたし、「注疏」とは「注」と注の注である「疏」を合わせた呼び名である。
 173ページ、「朱子の態度は、孔子の真意を正しく伝えているのは、孟子以後彼だけであるというものであり、」とある。だが朱子の道統論では、孟子以後朱子以前に周敦頤・程邕・程頤・張載の四人が道統を伝えている。
 189ページ、「プラトンは、人間の労働のなかで一番価値が高いのは哲学すること、そして、その次は戦争をすること、労働は最低だといっている。」とある。広義の労働と狭義の労働とを混同して使ったために、意味不明な文が出来上がったのであろう。
 252ページ、豊臣秀吉が「摂政関白にまでなった。」とされている。しかし実際には秀吉は摂政には就任していない。
 253ページ、「本能寺に斃れた織田信長が好んで舞ったといわれる、能『敦盛』の「人間五十年、下天のうちに比ぶれば、夢幻のごとくなり」という一節にも空を見いだせるし、」とある。しかしこれは能の『敦盛』ではなく幸若舞の『敦盛』である。
 297ページ、ユダヤ教キリスト教と比較する文脈で、「ところが、日本人には心から悔い改めた者は赦すべきだという思いこみがある。しかもそれはよいことだとも思っている。実はこれは、世界的にも歴史的にも常識外れな考え方なのだ。」としている。だが少なくとも第二次世界大戦後は、教育刑論・改善刑論と相性の良い新派刑法学は日本よりキリスト教圏のヨーロッパで盛んである。東京大学から法学博士号を授与された著者だが、残念な事に基礎がなっていない。
 これに続けて「世界的」な「常識外れ」とやらの「例」として、「サリンを撒いて何十人も殺した輩が死刑になっていない」事を挙げている。しかし地下鉄サリン事件の死者として認定された人数は「何十人」ではなく「十何人」である上、実行犯で唯一死刑判決ではなく無期懲役判決を下された林郁夫が殺した人数は「何人」のレベルである。
 しかもこれに続けて「これがアメリカだったらもう大変な騒ぎになっていること、間違いない。アメリカの刑法はもともと、人殺しは死刑というのが原則で、死刑でないのが例外である。これが常識なのだ。」と言い張っている。だが当時においてすらヨーロッパの国々の大半は死刑を廃止していたし、アメリカ合衆国内部にも幾つかの死刑廃止州が存在していた。ここにも3ページと同じく、三流右翼による自己に都合の良い「特定世界の常識」の問題が垣間見られる。
 334ページでは荀子を「孔子の孫弟子」と紹介しているが、荀子の生年は確実に孔子の直弟子達が死に絶えた後である。 
 337ページ、「科挙の出題科目は、儒教の古典に限られていた。」とある。これは大嘘。他の科目もあったどころか、儒教の古典を知っている事より詩作の能力の方が重視された時期も長かった。
 このページでは他にも「道教が隆盛の時期もありはしたが、ついに科挙の受験科目にはならなかった。」と断言している。だが『宋史』哲宗紀では、元祐二年正月戊辰にわざわざ詔を下して科挙の出題範囲から『老子』・『荘子』・『列子』を外している。
 346ページ、「孫文(一八六六〜一九二五)も、立法、行政、司法に監察を加えて、四権分立を唱えていたほど、」とある。だが実際には孫文はこれに「考試」を加えて五権分立を唱えていた。
 同ページには「「疑わしきは罰せず」という罪刑法定主義の正反対で、疑われた官僚が助かるためには、自らの無実を完全立証しなければならない。」とある。ここでは「罪刑法定主義」よりも「推定無罪の原則」の方が適切である。
 375ページでは夫婦別姓について、「源頼朝の正式の妻は北条政子」という使い古された愚論を提示している。「北条政子」と書かれた同時代の文献資料は存在せず、またそもそも「北条」が姓であるのに対して「源」は氏である。
 同ページでは「秀吉の妻の北の政所を豊臣ねねともいわなければ」とも書いている。確かに「豊臣ねね」とは言わないが、「豊臣吉子」とは言うだろう。
 394ページ、「新左翼の場合、中核と革マルの闘争は、要するに殺すことが目的だった。理由などはなく、ただ殺戮が目的なのである。主義が違ったというなら、彼らは日本共産党を、いやいや、それ以上に自民党を殺さなければならなかった。」としている。しかしそう単純なものでもあるまい。政治組織というものは、主義が近い団体が弱まった時こそ、大量の新規加入者が見込めるのである。これは本書の四半世紀前に立花隆が出した『中核vs革マル』で既に行われている分析である。著者の論法を使うと自民党内部の派閥抗争も「理由などはなく、ただ相手を潰すのが目的」の行動になってしまう。