教義からカルト度を判断すべきではない。 その1

 ある集団、特に宗教団体のカルト度を測定する際に、教義の内容を重視する人々がいる。彼等は、教義を読み込んだ上で、類似する伝統宗教の教義や、科学的真理や、世俗の規則等と比較し、そこから逸脱の度合いが高ければカルトと見做すのである。
 現役の宗教家やそれに類似した精神構造を持った人物には、こうした判定基準を重視する人がかなり多い。
 これは思想の自由が認められていない国や時代にあっては、確かに大変素晴らしい基準である。この基準を上手に運用出来なければ、公正な異端審問裁判は出来ない。
 しかし、現代の日本で「カルト」を論じる意義に照らして考えるならば、その集団が名目上掲げている正義よりも、彼等の行動が外部の社会にとってどれだけ害悪であるのか、そして内部においてどの程度の人権弾圧があるのか、に着目して論じる必要があると思う。
 極端な例を出してみよう。
 宗教団体Aの教義は、「正当防衛や過失以外の理由で他人を殺すと、地獄に堕ちる。ただし満月の夜の罪だけは、神は無条件で赦して下さる。」であったとする。
 宗教団体Bの教義は、「正当防衛や過失以外の理由で他人を殺すと、地獄に堕ちる。ただし満月の夜の罪だけは、貧者に全財産の1%を譲る事で、神は赦して下さる。」であったとする。
 教義だけで比較をすれば、Aの方がより危険であろう。
 だがもし、Aに属する人が実際に殺人を犯す確率が一般人の平均より低く、しかも殺害後には「神勅には違反しなかったが、日本国の法に違反したのは事実だから、大人しく自首をして現世での処遇については世俗の裁判の決定に従う。」と表明するような人ばかりだったとしたら、どうだろうか。
 「そんな宗教ならどんどん広がった方が、社会にとっては少なくとも短期的利益にはなるだろう。」と思う人が多数派であろう。
 そしてBに属する人が、満月の夜が来る度にここぞとばかり快楽殺人に耽り、証拠を隠滅して逃亡する連中ばかりであったとする。しかも肝心の喜捨も教団内部で財産の譲り合いをしているだけであったとする。
 これはやはり、Aより遥かに危険な集団だと言わざるを得ない。
 以上の立場を踏まえて、話を具体例へと進める。
 最近オウム真理教事件を回顧するテレビ番組が幾つか作られ、その内の一部を私は視聴してきた(一例→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20140415/1397561212)。
 その種の番組では、「なおも麻原崇拝を続けるアーレフvs麻原崇拝をしなくなったひかりの輪」という単純な図式が用いられることが多く、ややもするとひかりの輪の宣伝番組ではないかと私なぞは感じてしまう。
 莫大な取材費が必要になる事は解るが、それでもやはり「今現在、周辺住民や脱会者と、より激しい悶着を起こしているのはどちらか?」という視点から両教団を比較するテレビ番組なりルポタージュなりが誕生する事を願っている。そういう取材こそが、人々を明日のテロから救うのである。
 「もう既にそういうものはあるぞ!」という情報もお待ちしている。