司法権の謙抑性がもたらす中間団体の独裁体制がもたらす中間団体の分裂

 前回(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20130121/1358760734)は日本共産党民主集中制を話題にした。
 この民主集中制の威力を後押ししているのが、日本の司法権の謙抑性である。別冊ジュリストの『憲法判例百選2』の418ページにも載っている所謂「共産党袴田事件」で、最高裁は政党の内部自治を大幅に認めた(参照→http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=62340&hanreiKbn=02)。
 これと類似の問題が、宗教にもある。前掲書はこれに続ける形で420ページで所謂「板まんだら事件」(http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=56328&hanreiKbn=02)を、422ページで所謂「日蓮正宗管長事件」(http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=53373&hanreiKbn=02)を、紹介している。
 こうした判例のせいで、政党と宗教においては、上層部の主流派はほぼ無敵だと言って良い。佐高信氏は「企業は憲法番外地」としばしば言うが、政党・宗教は番外地どころではない。
 勿論それが絶対的に悪いとは言えない。国家権力が中々介入出来ない中間団体を作っておくことは、国家権力だけの取得を目指すクーデターの効果を低下させる。中間団体を軒並み弱体化させる方針の危うさは、フランス革命後のフランス史の混迷からも明らかだ。つまりオウムの暴走を生んだのは確かに国家権力の宗教法人に対する生温さだが、その生温さは、オウムのクーデターが万が一成功していた時には、保険として機能していた筈なのである。 
 さてこの謙抑的な日本の司法権の下、教団上層部の主流派と対立した傍流派はどうなるのか?教団内での民主的な闘争は、ほぼ不可能である。だからこそ消去法により、新組織設立という形で戦う者が多いのである。
 こうした次第で、日本の宗教は些細な対立からしばしば分裂する。信仰者の立場から、「教義がほぼ同じなのに分裂するなんて残念だ」と、この傾向を憂うる友人が私にはいる。
 だが私は分裂を擁護する。「分裂」といっても、それはあくまで日本の宗教法人という制度上の分裂なのであるから。教義が似ているなら、それこそ分裂して様々な形で切磋琢磨してくれた方が良い。また徳川二百六十年の平和の一因に、本願寺の東西分裂があった事も忘れてはならないだろう。宗教法人の分裂は、政教分離をより確実化するのである。
 宗教学者が一言で「ヒンドゥー教」と纏めている宗教現象の内部でも、様々な分派はあったのだし、今でもシヴァとヴィシュヌのどちらが最高神なのか決着していない。「道教」も時期によって最高神が違う。そもそも日本の伝統仏教だって法人としては幾つもの宗派に分かれている。おそらく明治維新後に分裂を繰り返して多様化した(ように見える)日本の新興宗教の大半も、後世の宗教学者から「神仏混交維持派」等の単語で一括りにされる事だろう。
 この「独裁には独立」という手法は、もっと広く学ばれて欲しいと以前から私は思っていた(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100509/1273393240)。
 前回の記事を読んでくれたブログ「林局碧段」さんが、民主集中制の被害の実態を大量に紹介してくれた(参照→http://blog.livedoor.jp/karoku1991/archives/23112656.html)。大変勉強になったのと同時に、「内部改革が本当に不可能なら、被害者・不満者が中心になって新組織を作るしかないだろうなぁ。」と思った。かつて起きたような思想的対立による分裂ではなく、あくまで制度としての民主集中制の有無のみを問題視する新組織ならば、かなり大衆的支持を集めるのではないか?
 勿論、不安要素を数え上げ始めれば切りが無い。
 その一つは、今の選挙制度下で分裂しても共倒れになりかねないとう事である。仮に日本共産党の主張が通って比例代表中心の制度になれば、安心して新党結成を目指す人も増えると思うのだが・・・。

別冊ジュリスト No.187 憲法判例百選2

別冊ジュリスト No.187 憲法判例百選2