Aという集合内部の小集団aの悪業を、Aの所業にするか、aの所業にするかで、世界は変わる。

 これは、以前書いた「一部の所業を全体に拡大する形式の差別には、甘やかしが混じっている。」(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20141016/1413387637)という記事の姉妹編的性格の記事である。
 
 Aという集合の内部に、aという小集団がいたとする。Aだがaでない者をbとする。そして全てのAを貶めたいXさんと、aだけを攻撃したいYさんとが、いたとする。
 前掲記事の例に倣い、「男性」をAとし、「男性の性犯罪者とその予備軍」をaとし、「性犯罪者やその予備軍ではない男性」をbとしてみる。
 aが性犯罪を犯した時、Xさんにとっては、それをA全体の所業であると言い張る事が、少なくとも短期的には利益になるだろう。「このように男は狼なのです!」と言って、全ての男性を攻撃出来る。
 しかしYさんにとっては、Xさんの言論は寧ろ邪魔である。第一には、前掲記事で検証した通り、この言説はaへの弁護としての性格を兼ねている。第二に、aに向けられる筈だった社会的敵意が拡散して薄まってしまう。第三には、bの一部がその言説を半ば信じてしまい、aへの好意・同情を示し始める。こうしてaは、社会全体においてもA社会においても孤立の程度が弱くなる上、自らを恥じる程度も弱くなる。
 aとしては、Xさんの世界観を原則として承認し、「我々こそがA本流なのだ!」と言い張ることが、少なくとも短期的利益につながる。
 
 XさんとYさんの利害対立の例は、他に幾らでも挙げられる。
 ただし、これは極端に理念化したモデルである。現実には自分が「aもbも同様に憎いXさん」や「aは憎いがbはさっぱり憎くないYさん」の立場に立つ事はほとんどない。大概は「bもそこそこ憎いがaはもっと憎いZさん」の立場に立つ事になる。またAとaとの単純な二層構造という場合も少ないだろう。
 だからこそ、自分の利害を計算し尽くして批判対象の呼称を上手に選べる者は、世界を自分好みの方向に変化させ易い。そしてこの事に無自覚な者や自覚していても計算・選択が下手な者は、言論活動の費用対効果が低く、場合によっては誰かに利用された挙句に却って世界を自分の望まない方向に追い遣ってしまうのである。
 例えば差別的言辞を弄して某国を誹謗するデモが行われた時、自分がそれを「デモ」と呼ぶか「排外デモ」と呼ぶか「嫌某デモ」と呼ぶか「ヘイトデモ」と呼ぶかによって、翌日の世界は少しばかり違った様相を呈するであろう。