驕るなかれ多神教徒

 多神教を熱心に信仰している者にとっては、確かに一神教というものは非寛容的な体系に見えると思われる。一生懸命に複数の神々に祈っている横で、「お前達の崇拝対象は、(あるいは最高者に限っては我等が絶対神の別名かもしれないが、それ以外は)良くてせいぜい天使か悪魔、そして大概は完全に妄想の産物なんだよ。」と言われれば、愉快な気分はしないだろう。
 そして多神教徒が一神教徒より多い日本では、「一神教は非寛容、多神教は寛容。」という単純な図式が語られる事が多い。かつて紹介した定方晟著『憎悪の宗教―ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」』(洋泉社・2005)や岸田秀著『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』(新書館・2007)等はその典型例である(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20080416/1208283688http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20081211/1229001846)。
 しかし多神教という体系もまた、それ自体が一神教という体系を否定しているという点ではお互い様である。「お前達が絶対神だと思い込んでいる対象は、あるいは最強神ではあるかもしれないが、仮にそうだとしても次強から第X位までが束になってかかれば少なくとも苦戦はするであろう程度の存在なんだよ。」と言っているのだから。
 「驕り」の中でも最も怖ろしいのは、自分だけは謙虚であるという思い込みである。そして狂信の中でも最も怖ろしいのは、自分だけが狂信者ではないという命題の狂信である。