投了(挿絵・友人某)

 知人が新興宗教に入信した。現役の牧師の息子だったので、町ではそれなりに話題になった。
 彼の父である牧師が、私に彼を説得して欲しいと依頼してきた。私は承諾し、知人を訪ねた。
「父君は心配していました。これは一つの提案なのですが、納得がいくまで論争してみてはいかがでしょう?勝利すれば一人をより正しい信仰に導いた事になり、敗北すれば真実に目覚めた事になります。また議論を諦めているのなら、せめて父君が亡くなられるまでお待ちあそばせば?」
 そう私が言うと、彼は教団への御布施用の振込み用紙を私に突きつけた。眼からは狂気の光より寧ろ強い意志を感じた。私は、最近は随分近代的なカルトも在るのだなと妙に感心しながら、余計な忠告をした事を詫びて早々に退去した。
 他人の強い信仰や世界観には立ち入るべきではないというのが私の信条である。最近ではこれ自体が既に私の第一の律法となっている感すらある。
 翌日、私が知人との宗教論争に惨敗したという噂が町中に流布されていた。この噂を撒き散らしたのが知人の属している教団なのか知人の父が属している教会なのかは判らない。犯人に対して布教もこれぐらいの熱意でやれば良いのにと思う反面、町民に対しても信仰を疑うのと同じぐらいの慎重さで噂を疑えば良いのにと思った。
 一々言い訳をしてまわるのも面倒だし、仮に不屈の意志でそれを達成しても、犯人には私から労力を奪うという成果だけは与えてしまった事になる。だから何もしないで横たわっていた。
 省みれば、異教の宗教家から宗教に関する事で依頼を受けたという事実に慢心していた気もする。
 そうした私の性格や思考回路まで読んだ上で、将棋の様に私を追い詰めたとしたなら、いっそ潔く討たれてやるべきなのかもしれない。殺人は違法であらねばならないから、こうした抜け道も守ってやらねばならない。そんな思考が頭を過ぎった。


 水を飲んだ。実に旨い。
 水は中立だ。水を旨いと感じる時、人は負の状態にある。渇いた時、酔った時、そして末期の時。
 水もまた私を求めているのかもしれない。
 投了だ。