ほうげん

「我に従え!我に従わざるは悪魔ぞ!悪魔を滅ぼせ!」
「滅ぼせ!滅ぼせ!」
 宗教法人「國學の楓香」の宗家指導者である小鳥遊和雅歌(たかなし わがか)は、今朝も演説をいつもの文句で締めくくった。
 自室に戻った彼女は、気絶するまで続ける事が義務付けられている信徒達の復唱を聞きながら、自慢の法被を着た。そして普段通りに般若心経の五万七千五百七十七倍の徳があると言われる自作の和歌集を詠み始めた。
「法被良い 才媛すでに 狩るトドは 京畿の域に 達しけるかな」
 これは「美しい法被を着た賢い女性(である私)が(北国で)素手で狩ったトドは、(帝の待つ)都に届いただろうか?」という意味の歌であり、自分を着こなしが良くて賢くて勇ましい女官に喩えて詠んだ歌である。師匠である土師下歌神(はじした かしん)の詠んだ歌の盗作であるという説が、教団の外部では有力であった。
 小一時間程詠唱して一息つくと、そろそろ信徒達の復唱が弱まり始める頃であった。小鳥遊は怠けている信徒を殴るため、面倒ではあったが老骨に鞭打って立ち上がった。
 その時、部屋の片隅の影が急に濃くなり、その漆黒から一体の亜人が出てきた。その姿は通俗的な天狗の図像に酷似していた。
 小鳥遊は驚き慌て、相手の身の上を尋ねた。
「俺か?俺はおまえたちの言葉で言うところの悪魔だよ。固有名詞で名乗るならΣだ。本日はあんたを地獄に連行するために来た。お疑いなら、ほら、これがその証拠である令状だ。」
「貴方達悪魔を敵視する発言をした事は謝るわ。でもこれは貴方達の遥か上役であるところのルシファー様との合意の上の事だったのよ。私を泳がせておいた方が結局は貴方達のためにもなるの。お疑いなら上司に伺って頂戴。」
「下手な弁解はやめなさい。あんたはやり過ぎたんだ。」
「おおお、狡兎死して走狗煮らるとはこの事か。ええいルシファーめ、呪ってやるぅ。」
 
 一時間後、Σは天界の執務室に戻って報告書を作成していた。そろそろ怠けたいと思った時、まるで見計らったかの様に同僚が珈琲の差し入れをしに入ってきた。
「おいΣ、ちゃんと下界の言葉を勉強しておいたんだろうな?被告人には自分の置かれた状況を母語で教わる権利があるんだぞ。」
「当たり前だ。私は日本国の公用語を学んだ上で、職務執行地域の方言まで独自に研究をしたんだぞ。例えば、公正と正義を愛する義人を応援する神の御使いを、日本国の公用語では"tenshi"と発音するんだが、あの辺り一帯だけ"akuma"と発音するんだ。自慢ではないが、これは地上の言語学者達ですらまだ誰も気付いていない現象なのだ。」
 Σの仕事は、罪科が懲役一億年に達した人物を生きている内に地獄に連行するというものである。近年、一億年以上の長期刑は人道主義に違反するという見解が強まったので設けられた職務である。
 Σは報告書の執筆を再開した。
「なお被告人は、模範囚である現牢名主に対し、何故か逆怨みをしております。放置しておくと牢内の秩序を乱す危険が高いので、現牢名主の刑期が終わるまでの九千九百九十四万二千四百二十三年間は厳正独居房に入れておくよう、進言いたします、と。」