沈黙

 忘れもしない大学二年生の夏、ある過激派(以下、「組織甲」と表記)の学生たちが、ある法案に激しく反対していた。
 組織甲の副委員長は署名を集めるために私の部室にまで押しかけてきた。部屋には私しかいなかったが、副委員長は熱心に自説を開陳した。
 私はその費用対効果を度外視した態度に感動した。今にして思えば、彼は単に「全部室でこの内容を演説してこい。」という上司の命令を機械的に実行していたのであろうし、その動機は粛清への恐怖が大部分を占めていたのだろうが、当時の私は自分が大物になったような錯覚を覚えたものである。
 最後に彼は「黙っているのは賛成したのと同じなんです!」と主張した。
 私は彼への感謝の気持ちから、せめて口先だけでも彼に賛同してやろうと心に決めていたのだが、黙っているだけで賛成したのと同じになるならその方が効率的だと思ったので、ひたすら黙る事にした。
 すると彼は突然殴りかかってきたので、私は反撃を開始し、遂に殺してしまった。
 正義のためとはいえ、心の準備も無しに人を殺してしまうと、流石に妙な罪悪感がわいてきた。そこで、
「君の死は君の自業自得であるどころか、そもそも君はこういう結末を望んでいたのだろうね?今、君はきっと私に感謝しているね?」
と聞いてみた。すると彼は何の反論もせず、黙ったままであった。こうして彼の流儀において私の行為は肯定された。
 しかし我が国では残念な事に同意殺人も犯罪である。加えて裁判所が私の得た同意を社会的に無効であると見做す可能性があった。私は論理的な人間だが、社会において論理が無力であるという事を弁えていた。
 そこで警察に自首をしたりはせず、黙って帰宅した。
 しばらくして組織甲の副委員長が何者かに殺されたと話題になり、我が家にも警察官がやってきた。警察官は私に言った。
「副委員長の死について、知っている事を何でも良いから教えて下さい。」
 ここで「知っている事を全て話して下さい。」と要求されていたら、私は犯人が自分である事を素直に自白していたかもしれない。あるいはその場では我が身可愛さに自白をせず、その後の人生において延々と嘘を吐いてしまった事への罪悪感に苛まれていたかもしれない。
 しかし運の良い事に、話す内容は事件の関連事項なら何でも良いとの事だったので、犯人は組織乙の構成員だという噂が広まっているという事実を話すだけで済んだ。
 その後、組織甲と組織乙の抗争は激化の一途を辿り、双方共に壊滅した。私が大学を卒業する頃のキャンパスにおける闘争は、漁夫の利で台頭した某革新政党の事実上の下部組織と応援団との間のものに完全に変質していた。怪我人すら出ない争いばかりになった事を、ノンポリの学生達も喜んでいた。だが某革新政党も応援団もノンポリ一同も、自分たちが享受している平和を私がもたらしたものだと知らなかったので、菓子折りの一つも持ってこなかった。
 鼓腹撃壌の世を達成した後の堯よりも、私の方が一層その業績を世間に知られなかったのである。堯の業績は結局は庶民以外には知られてしまったのに対し、私の業績は私だけが知っているものであったのだ。
 それにしても、私の様な若輩者が堯を超えてしまうとは思わなかった。「沈黙は金」という諺があるが、私の沈黙は金にはならなかった。しかし金以上の何かをもたらしてくれたのである。
 
 大学卒業後はエリートを適当に見繕って結婚をした。
 この配偶者は収入こそ良かったが、残念な事に話が噛み合わなかった。
 一度、「何故こんな事をするのか?」と聞いてきたので、わざわざ詳細な説明をしてやった所、「言い訳するな!」と言ってきた。随分と下手な負け惜しみもあったものである。
 以後、何を聞かれても沈黙する事にした。こうして彼は二度とあの負け惜しみを言えなくなってしまったのである。
 それから三年後、「何故いつも沈黙するのか?」と聞かれた。おそらく沈黙の理由を「『言い訳するな!』という命令を遵守してやっているのだ。」と説明してやったら、また「言い訳するな!」と言う予定だったのだろう。当然ながらこれにも沈黙をもって応じた。
 だが、馬鹿が馬鹿なりに一生懸命考えたトラップの稚拙さに、思わず笑みがこぼれてしまった。だが他人を大々的に嘲笑するのは私の美学に反したので、この笑みを即座に慈悲の笑顔に変形させ、更に格別の憐憫の情をもって「貴男はその理由を知っている筈です。」と事実上の回答まで与えた。
 その数日後、我々は離婚する事になった。離婚を提案し、しかもその成立を急いでいたのは配偶者の側であったし、私は過去の言動は全て理に適っていたので、交渉は決定的に私の側に有利に進んだ。
 彼が不利な条件での離婚を急いだのは、おそらくは良い政略結婚の話があったからだろうと思われる。
 しかし実質的には「意味のある発言をするな!」という意味で放たれた「言い訳するな!」という命令を三年間も律儀に守り通す古風な女性なんて、今時は私ぐらいしかいないだろう。よって、彼の新しい再婚生活が灰色のものになる事は完全に予測出来た。
 だが私は別に彼の軍師でも何でもないので、この予測とその理由とをわざわざ教えてやろうという気にはならなかった。
 彼も私の重厚な態度に感化されたのか、この数日間の様子を見る限り、聞かれもしない事をべらべらと喋る癖は昔と比べて大分治ったようであった。