「オウムを知らない子供達」に対しては、情報だけを伝える控え目な語り部になりたい。

 私は第二次世界大戦を経験していない。「戦争を知らない子供」だった。
 戦争を経験している大人達が、自衛隊を極端に警戒していると、反発を感じたものであった。そのため、こう何度も彼等を説得した。
 「確かに、自国の軍隊に苦しめられたという貴方方の貴重な体験談は尊重したいと思います。しかし、現在日本にとっても世界平和にとっても脅威なのは、どう考えてもA国軍です。自分の経験を絶対化するのではなく、現実も見て下さいよ!」
 やがて「オウムを知らない子供達」が育ってきて、私は老人達の気持ちが少しだけ理解出来た。やはり自分の体験というものは強烈であり、今現在アーレフ(旧オウム真理教)以上に世間を騒がせている宗教団体が多数在っても、ついアーレフサリンを作っていないかの方が気になってしまうのである。
 それを踏まえた上であの意固地な老人達の代弁をするならば、以下の様になる。
「確かに、今この瞬間の脅威だけを計算すれば、ワッパの言う通りぢゃろう。しかしあらゆる過去を計算に入れないのであれば、その『今この瞬間の脅威』すら一秒後には無意味となり、人は脅威の計算ばかりし続けて永遠に脅威に備える事は出来ない。」
 少し気持ちが解ったからといって「転向」する積もりは無い。
 理由の第一は、やや理屈っぽくなるが、オウムにサリンを散布されたという自分の「体験」が重要ならば、意固地に外国軍を贔屓する老人に辟易したという「体験」もまた自分の立派な財産だからである。
 第二に、昔の悪事を永遠に気にし続けるべきだというのならば、十字軍や異端審問裁判を根拠に、永遠にカトリック教会を厳しく見張り続けなければならなくなる。これはやはり現実的ではない。真理は、「今この瞬間の脅威だけに備える」主義と「過去の所業を永遠に今現在の悪事と等価に見る」主義の中間にある。
 なお、「どの程度の中間なのか?」と聞かれても、「それはケースバイケースであるから各自が判断するしかない。」としか答えようが無い。仮に不祥事の後に厳しく見張る期間を公職選挙法の如く「十年間だ!」等と決めても、「ひかりの輪もオウムの後継機関か?」だの「航空自衛隊も帝国陸海軍の後継機関か?」だのといった問題については各自で悩み続けなければならないだろう。
 
 一生懸命他のカルト宗教を手弁当で見張っている若者をビンタして、「この糞餓鬼、そんな暇があったら儂のアーレフ監視を手伝わんかい!」と叫ぶ老人には成りたくない。
 「オウムを知らない子供達」がいたら、単に情報としてオウムについて伝えれば良い。それを聞いた後でどう行動するかは、次の世代の個々人の自由である。