私には他人の自殺の邪魔をして世の中に害悪を撒き散らした経験がある。

 他人の自殺の邪魔をする事が他人の自由への侵害であるという事は、私は未成年の頃から菊池寛の『身投げ救助業』を通じて観念的・抽象的に理解していた。
 それは現在の私の自殺に対する認識の基礎になった。しかし、今にして思えば、その頃の理解は実に浅薄であった。
 二十歳を少し過ぎた頃、私は自殺に関する決定的な経験をした。
 私は他人の自殺を不用意に阻止してしまった。後先というものを全く考えない行動だった。
 そしてそのせいで生き延びた人物は、自殺の動機を残したまま、苦しみながら生きる事になった。しかもその人は極悪人であったので、一つには生き続けるための糧を手に入れるため、二つには抱えている苦しみの腹癒せのため、周囲に多大な害悪を与え続けた。
 今にして思えば、あの時の自殺こそ、その人の最後の良心の発露だったのかもしれない。
 私の不用意な行動が、多くの苦しみを世界に撒き散らしてしまった。私のした事は法律では裁けない。だが私が一つの命を救う事で間接的に全世界に向けて撒き散らした不幸の総量は、ひょっとしたら平均的な快楽殺人に匹敵するかもしれないのだ。
 この事が、後先を考えない自殺の防止への嫌悪感を増大させた。(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20130604/1370284053http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20130606/1370463776
 ただし、苦しいから自殺しようとしている人の苦しみを除去するという形での自殺の防止には、今でも大賛成である。
 「借金があと五百万円少なければ、首なんか括らないのに!」と思いながら死のうとしている人に、五百万円以上の金銭を与える行動は、実に尊い。または、直接身銭を切らないにしても、例えば政治に圧力をかけて福祉を充実させる等の手段で日本中の自殺志願者を減らそうとするのは、実に素晴らしい行動である。
 しかし、自殺の動機を除去する意思も能力も無い者が、単に自殺の邪魔をしても、単に苦しみを長引かせるだけであろう。しかも場合によっては、生き延びたその人は、例えば借金を無理に返すために犯罪に手を染める可能性すらあるのだ。
 そういう事を全て理解した上で、「生き延びて逆に幸福に出会う人もいます。しかも場合によっては、周囲までその御陰で幸福になります。そしてこの研究成果によれば、自殺の邪魔を無差別にした場合、世界の幸福の総量の期待値は若干上昇するのです。だから我々は、小の虫の苦痛を踏み台に、大の虫を活かす努力をしているのです。」と主張して自殺の邪魔をし続ける人がいたなら、それも尊い活動であり、全面的に支持する。
 しかしそういう身投げ救助業者にはまだ出会っていない。
 私が過去に出会った身投げ救助業者は、自殺の邪魔という行為それ自体が絶対の正義であると信じて疑わない半ば新興宗教じみた連中ばかりであった。
 そういう人の顔を見て演説を聞いていている内に、背筋が凍った事もある。この時は、「まだ生きていたい人を誰かが小さな快楽や宗教的な儀式のために殺そうとする現場を、将来見る事があったならば、きっとまた同じぐらい背筋が凍るのだろうな。」と思った。
 
 自殺を邪魔する行為のもたらす利害得失に関する考察がほとんどなされていない原因の一つに、所謂「死人に口無し」という現実があるのかもしれないと、最近思うようになった。
 自殺の邪魔をされた後、偶然幸福になった者は「あの時、邪魔してくれてありがとう。パターナリズムってやっぱり素晴らしいね。」と、かつての邪魔者に御礼を言いに来る。一方、不幸なままだった者は、大概はひっそりともう一度自殺に挑戦して成功したり、餓死したりする。「寄せられた声」だけに耳を傾けていたら、自殺の邪魔が完全な善行であると思い込んでしまうのも無理は無い。 
 「生きていれば良い事もあるさ。生きてみようよ。」という甘言は、『魔法少女まどか☆マギカ』のキュゥベエの「僕と契約して、魔法少女になってよ!」という発言に似ている。発言の内容自体は概ね真実ではあるが、真理の一片を都合良く切り取り、残りの部分を隠している。
 甘言に騙された者の一部は騙されたまま幸福になり、礼を言いに来る。騙された事に気付いた者の多くは、文句を言いに行くのも面倒なのでそのまま大人しく死んでしまう。
 騙された事に気付いた者の極一部が奇跡的に「生きていたら確かに当然ながら多少は良い事もあった。しかし苦痛の方が多かった。この事実上の大嘘吐きめが!」と抗議した時だけ、無自覚に甘言を弄した者は自分の偽善に気付けるのである。

菊池寛全集 第二巻

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