「何もしない人より何かした人の方が偉い」教の自称信者が、本当に何もしない人を攻撃する事は稀である。

 政治運動やボランティア活動等に対し、その最終目的を概ね評価しつつも、「おいおい、そんなやり方は非効率的だよ」という批判をする人がいる。
 そういう批判を浴びた際に、自分達の既存の方針の方が正しいという絶対の自信があるならば、議論をしてやり込めてしまえばいいだろうし、その議論の費用対効果が低そうであれば黙殺してしまえばいいだろう。
 どちらが正しいか自信が持てない時も、やはり議論か黙殺が上策であると思われる。
 そして自分達の既存の方針の方が確かに間違っていたと思ったなら、批判者に感謝して行いを修正すればいい。
 ところが不思議な事に、「何もしない批判者より何かした自分の方が偉い」という一元論的ルールで批判者をねじ伏せようとする連中がいる。
 だが仮にこのルールを認めるならば、そういう人達は真の巨悪を無視して、小さな悪の攻撃に拘泥した事になる。
 何故なら、このルールでは、「批判者」というのは、「批判」という行為を行っているので、本当に何もしなかった人よりかは偉い事になるからだ。「何かした人の方が偉い」教を本当に信じるならば、まずは自分達に対して批判すらしなかった傍観者をとことん攻撃した後に、「我々の批判者達よ、汝等はあの中立的傍観者連中よりかは行動的であったが、まだまだ我々の行動力には及ばないぞよ。」と軽く窘めるのが、自己ルールを真に守る者の採るべき行動であろう。
 よって、普段は傍観者を攻撃しないくせに、批判者に対しては「何もしない人より何かした人の方が偉い」と言い張る連中とは、実際には「何もしない人より何かした人の方が偉い」以外の様々な善悪の基準も自分の中で認めているのであろう。
 そしてこういう身勝手な連中が腹の中で奉じている「その他の基準」の大半は、「我々に逆らう者は悪」という幼稚なものである事は、ほぼ間違いない。