今、第二の像法の世が到来している。

 仏教思想の一つに、釈迦入滅後の時代を「正法」・「像法」・「末法」と区分するものがある。後世になるに従い、徐々に仏教が形骸化・無力化していくというものである。
 その思想を奉じるかどうかは宗派によっても違いがあり、また奉じたとしても正法の世の年数等に若干の異論があったりもする。
 「像法の期間は千年!」等の主張を機械的に信じてしまったのでは、これは単なる迷信である。
 しかしながら、これは真理の一部を片言で表現したものだと私は思っている。
 書写技術が低かった頃、御経はもっぱら口伝で伝えられていた。紙が発明された後も、当分の間は手書きで複製が作られていた。そういう文明の程度を前提にすれば、「約二千年で仏教は原始仏教から似ても似つかないものになっているだろう」という発想は、実に当然の推測である。
 また仮に文明が急速に進歩した場合も、それはそれで釈迦在世当時のインドでは自明の前提であった約束事がすぐに綺麗さっぱり忘れ去られてしまう。その場合、釈迦の発言が正確に伝えられたとしても、その発言が何を前提にして何をあてこすっているのかがわからなくなってしまうのである。
 そうした意味で、この三区分時代法は極めて優れた真理であると思うのである。
 だが人類は現在、印刷術という技術を手にし、しかも数多くの学術を庇護するようになった。
 ある学者は、伝世文献とは別に二千年位前の古い御経を発掘し、それを解読出来る。ある学者は、その御経の書かれた年代をかなり正確に測定出来る。ある学者は、二千五百年前の南インドの庶民の文化をある程度再現出来る。
 そうした知の営みの総合として、現在の最高峰クラスの原始仏教学者達は、千年前の高僧風情よりも、遥かに正確に古い御経の意味を理解し、原始仏教の実像に近い場所にいるのである。
 つまり、一度は実際に末法の世が到来したが、その後の人類は努力によって像法の世を取り戻し、今まさに正法の世に迫りつつあるというのが、私の立場である。