「日本の釈迦」としての豊臣秀吉

 外国の有名人Xに何らかの意味で似ている日本の有名人を、比喩的に「日本のX」や「和製X」と呼ぶ事がある。当然ながらXの特徴の内のどの点に着目するかによって、人選は千差万別となる。誰を選ぶかで選者の興味や性格が浮き彫りになる事もある。
 「日本の釈迦は?」と日本人に聞いて回れば、おそらくは有名な高僧達と聖徳太子あたりが上位を占めるであろう。
 だが私は最近この質問に対して「豊臣秀吉」と答えた。これはほぼ確実に少数意見であり、どこぞの新興宗教の教祖にすら票数で敗けかねない。
 以下、そう答えるに至った事情を説明する。
 私は、仏教に類似する思想は当時の南インドに幾らでも有ったと考えている。まずほとんどの庶民は初めから苦行なんかしない。常識及び多くの苦行僧の観察の結果、「極端な苦行はほぼ無意味だ。少なくともペイはしない。」と考えるからである。そして自分より豊かな人間が必ずしも精神の安息を得ているとは限らない事は、社会生活を普通にしていればすぐ気付く事である。大金持ちが時々病気になってやがて老いて死んでいく事ぐらい、庶民は家の門を出なくても親類から伝聞で簡単に知る事が出来る。
 だが極端な苦行や快楽を経験していない人物が「それらは無意味だよ!」と言い張っても、余り信憑性は無い。「やってみなければ判らないではないか?」と反論する者も多いだろうし、「あいつは負け惜しみをしているだけなんだ。」と勘ぐられかねない。
 そんな中、極端な快楽も苦行も経験した男が「極端な快楽も苦行も無意味だ!」と叫んだのだから、彼はその思想の生きた証拠となったであろう。彼以前からその思想を説いていた者達も、彼の登場以後は彼を根拠・権威に使ったであろう。こうして自然に彼はこの種の思想の代表選手となり、やがて開祖と見做されるようになった。
 私はそう考えるから、釈迦が人類史上これだけの影響力を持った最大の原因は、思いついた真理の内容ではなく、その真理に説得力を持たせた人生であると思っているのである。
 豊臣秀吉の人生にも、体験した順序こそ釈迦と逆であるが、極端な快楽と苦痛とが存在している。
 戦国時代に一介の農民として生まれた後、厳しい君主の下で幾度も死線をかいくぐって出世街道を駆け上っていくという苦難は、ちょっとした苦行僧の体験の比ではなかっただろう。そして晩年には、一国の皇子と同等の敬称である「殿下」を手にし、史上稀に見る贅沢を行った。
 その秀吉が詠んだ辞世の句であるからこそ、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」は人々の心を打つのである。同じ句を、一生慎ましかった高僧や貧乏人が読んでも、一生不自由をしなかった大金持ちが詠んでも、「あいつは人生が単純で充実してなかったからそう思うのも至極当然だ。」という感想を周囲に持たれて終わってしまったであろう。
 ただしこの秀吉の境地は、「苦労した挙句に幾ら権勢を得ても、所詮人生はこんなものだから、天下人への野心なんか捨てて大大名のままでいた方が気が楽だぞ。」と周囲に思い込ませる事で、秀頼が誰かに滅ぼされる可能性を少しでも減らそうとした演技であるという可能性もある。以前、「成り上がり者の李成桂が晩年に不幸になるという物語は、次の成り上がり者を出さないために彼の一族が自分から広めたのではないか?」という想像(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100125/1264371277)をした経験があるが、この技を仏教風に行ったのが、秀吉の辞世の句であったのかもしれない。
 だがこれが一世一代の演技であったとしても、彼の説いた法が、今もなお人々を様々な執着心から解放している事に違いは無いのである。
 そして秀吉の死後、残された息子も巨城も神号も、二十年以内に綺麗に消え去ってしまった。この事実もまた、『平家物語』以上に諸行無常・盛者必衰を感じさせてくれて、秀吉の辞世の句の説得力を一層増している。この点においては、仏舎利が崇拝対象になってしまった釈迦を超えているとすら言えるかもしれない。
 以上により、私は「日本の釈迦は?」と聞かれて、豊臣秀吉が回答として思い浮かんだのである。

平家物語 (岩波文庫  全4冊セット)

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