「偽経」のススメ

 ある伝統的宗派の信徒のサイトで、禅宗が「邪宗教」呼ばわりされていた。興味を持って読み進めると、その理由は禅宗で重視されている経典が中国で作られた可能性の高い偽経だからとなっていた。
 しかし皮肉な事に、その人が信じている宗派で使われている御経も、インドで作られたものではあるものの、釈迦入滅後相当の歳月が経過してから作られたものである事が定説のものであった。
 仏教の定義の範疇をどこまでにするかは個人の自由であるし、どの御経が真理に最も近いのかの判断は各人の宗教観に任せるしかない。理知的な探求が寄与出来るのは、その各人の選択の際の参考資料を増やす所までである(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20091027/1256637455)。だからそのサイトを紹介して叩くのが本稿の目的ではない。
 だが私は私で主張する。まず第一に「中国で作られたとされる御経は、偶然他の地域で発見されていないだけという可能性もあるし、あるいはまた釈迦を超える才能を持った中国の宗教家が己の感得した真理をより効率的に伝えるための方便として書いたものかもしれない。」と。第二に「御経の価値は宗教的側面に限定されない。」と。
 第一の主張は、石原莞爾の『最終戦争論』の第五章である「仏教の予言」から着想を得て練ったものである。石原は、大乗非仏説の研究成果を事実として認めると同時に、長い年月を掛けて書かれた様々な御経の間で極端に大きな矛盾が無いのは霊界において相通じるものがあったからだという信仰を吐露している。日蓮を奉じる石原には不本意かもしれないが、この発想は中国製の御経にも応用出来た。
 第二の主張についてだが、まず文学・道徳・哲学としての価値が挙げられる。また見落としてはならないのは、歴史学への助力としての価値である。特定の御経が特定の時代・地域において劇的に流行した形跡がある場合、そこに盛られた精神が当時のその地域の民衆の価値観の近似値である可能性が高いのである。
 特定の御経の狂信者がそうした諸価値に触れようとしないのも相当勿体ない事だが、一般人がその猿真似をするのは笑止である。
 こうした問題は仏教以外にも見出せる。
 例えば神道は、明治維新の際に古代の記紀神話への回帰が強制されたが、中世には記紀の内容とは異なる様々な神話が並存していた。その一部は山本ひろ子著『中世神話』(岩波書店・1998)等を通じて少しずつ一般に知られ始めている。貴重な宗教的遺産である中世神話を調査して中世の日本人の心に触れる事は、『日本書紀』の「一書曰」の精神への本当の意味での回帰であるとすら言えるだろう。
 儒教については、讖緯思想がもっと脚光を浴びるべきだと考えている。これを知悉しなければ、漢・魏・晋・南北朝の精神を深く理解する事は出来ない。煬帝に対等を強調した国書を送った事を仰々しく歴史の教科書に書いている日本人の多くが、煬帝の讖緯思想研究禁止令を律儀に守っている姿は滑稽である。三国志の人気に乗ずる形でも良いので、讖緯思想を広く一般に解説する書・人物が出てこないものかと期待している。

最終戦争論 (中公文庫BIBLIO20世紀)

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中世神話 (岩波新書)

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日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

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正史 三国志〈1〉魏書 1 (ちくま学芸文庫)

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