大川隆法著『西田幾多郎の「善の研究」と幸福の科学の基本教学「幸福の原理」を対比する』(幸福の科学出版・2014)を読んでみた。

 大川隆法著『西田幾多郎の「善の研究」と幸福の科学の基本教学「幸福の原理」を対比する』(幸福の科学出版・2014)とかいう本を読んでみた。
 「まえがき」で著者は「幸福の科学の思想を読んで「学問性がない」と思う学者は、今すぐ辞表を提出するがよい。」と、随分偉そうに語っている。学問には学問独自の価値があり、宗教には宗教独自の価値があるだろうに、何故「学問性」という畑違いの基準で学者に無駄な対抗意識を持ったのだろうかと、不思議に思ってしまった。しかしそこまで言い切った度胸に免じて、一応この本の評価の基準に「学問性」を加味してやる事にした。
 だがこの本には、学問性のある本には付きものである出典の紹介が、ほぼ存在しなかった。
 この傾向について、著者は21ページから始まる「「オリジナルの根本思想を説く人」と「二番煎じの思想家」との違い」という節で、一応の弁明らしき事をしている。
 それによると、西田や古代の哲学者の様なオリジナルな思想家は自分でものを考えて書くから、他人の著作の引用は必要無く、自分もまたそうであるとの事である。そして引用文献をしっかり紹介する現代風の学術論文を貶めている。
 だが現代風の論文でも、オリジナルな部分には出典を書く必要が無いし、そもそも書く方途が無い。そしてそうした個所が一つぐらいは無いと、その論文の存在価値もかなり低いであろう。また現代風の論文でも、先行研究がほとんど存在しない分野では、引用は比較的少ないであろう。
 また知的財産権を尊重するという風潮が発生する以前の時代の哲学者の著作は、引用に関する適切な見本にはならないであろう。
 そうした意味では、ここでは古代の哲学者の著作ではなくヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』等を引用の無い名著の例に出す方が良かったであろうし、出典を示すべき時にはしっかり示すべきであった。またそうした作業が面倒臭いのであれば、「学問性」を基準にして学者に対抗心を持つのではなく、宗教書や大衆書のライターとしての栄光を目指すべきであっただろう。
 「出典を示すべき時」とは、具体的には、他人の著作や研究を参考にした場合である。『善の研究』の内容を語る場合は、「自分で『善の研究』を読んで分析しました。『善の研究』という出典は本の題名にしっかり明記しています。」という主張が通じるにしても、40ページ等で西田幾多郎の人生を語る場合には、参考文献をしっかり明記すべきである。万が一、当時を知る古老や西田の親類等と直接に対話して西田の人生を聞いたのであるならば、確かに参考文献の紹介は必要無いが、その場合も自分が如何にしてその情報を得たのかを明記しておく必要があるだろう。
 さて、それでは「宗教書」としての価値はどうかというと、これも出典を明記しない傾向のせいで、随分低くなってしまっているのである。
 例えば、107ページからは『ルカによる福音書』で有名な「よきサマリア人のたとえ」の話が出て来る。だがここでは、現行の聖書とは違って、「レビ人」が通り過ぎて「サマリア人」が来るまでの間に、「その旅人を助けることができるようなユダヤの金持ち」とやらも来た事になっている。
 学者ならば、例えば「私は現在流通している『新約聖書』とは別の異本『X』の方が、かくかくしかじかの理由により、より原型に近いと考える。よってそれを典拠にイエスについて語る。」と書く所である。宗教家ならば、「私は霊界のイエスと対話したり、時空を超えて直接当時の中東を見聞した事によって、よきサマリア人のたとえの本来の文言を知っています。よってここでは、そちらの方を語ります。」と書く所である。だがこのどちらをもしないので、単なる記憶力の低さや散漫な校閲が原因で聖書の文章と乖離してしまった可能性の方を疑われてしまう状況に陥っているのである。
 また73ページから74ページでは、『天才打者イチロー 4000本ヒットの秘密』という著作を褒める記事が「スポーツ紙」に載ったと書いている。しかし、そのスポーツ紙の名称も記事の日付も書かれていないので、「この教祖は凄い!」と読者に思い込ませる効果が劇的に低下している。
 古代の哲学者の著作や『善の研究』において引用が少ないという表面的な傾向をその原因も考えずに猿真似した結果、学問的な本になれなかっただけでなく、宗教的な本としても欠点を抱え込んでしまったのである。こういう類型の失敗を「邯鄲学歩」という。
 以下、「学問性」や「引用」とは別の問題点・疑問点も明記しておく。なお、霊界の真実がどうこうといった水掛け論は敢えて行わない。著者の死生観を盲信する方々とも一緒に問題視して頂けそうな箇所のみの指摘に留める。
 18ページ、「『こころ』は、漱石の作品のなかでも、いちばん人気のある本で、いまだに、好きな小説のアンケートを取るとベスト5には必ず入ってきます。」とある。しかし「必ず」は言い過ぎであろう。海外で行われるアンケートにおいてもベスト5に必ず入れるとは到底思えないし、日本国内においても調査対象次第ではベスト5に入れない事もあるだろう。
 41ページの「趙州和尚」に付された注釈は、「趙州(778〜897)中国・唐の時代の禅僧」となっている。確かに趙州従諗は「趙州」と省略される事が多いが、「趙州」の部分は地名なので、辞書的な人物紹介をする注でその部分だけを切り取って項目化するのは不適切である。
善の研究 (岩波文庫)

善の研究 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

小型新約聖書 詩編つき - 新共同訳

小型新約聖書 詩編つき - 新共同訳

荘子 第2冊 外篇 (岩波文庫 青 206-2)

荘子 第2冊 外篇 (岩波文庫 青 206-2)

こゝろ (角川文庫)

こゝろ (角川文庫)