果たして人間中心主義は生態系保全の敵か?

 生態系保全を強く叫ぶ者の中には、人間中心主義を敵視する者が一定数いる。
 またその者が反西洋中心主義者をも兼ねていた場合、『旧約聖書』の創世記の第一章の六日目に神が人間に与えた他の生物への支配権の記述を批判するのは、定石と言っても良い。
 だが私は、人間の増長を戒めるために「人間も生物の一種に過ぎないんだよ。」と教える手法に疑念を持っている。というのは、「人間は特別な存在ではない。生物の一種に過ぎない。」という命題が「生物は生存競争を続けてきた。そして適者が生き残ってきた。」という進化論の命題と融合した時、一部の人間は以下の様に考えると思うからである。
「そうかそうか、ならば生存競争の一プレイヤーとして、他の生物との無慈悲な戦いを思う存分繰り広げてやろうではないか。それこそが自然のあるべき姿であり、我々に負けて滅ぶべき弱いプレイヤーを不自然に生き延びさせるのは自然の摂理に反する。」
 この流れに対抗するヒントは、儒教史にあった。
 複数の君権が互いに争っていた戦国時代には、孟子が「斉なんて天下の九分の一に過ぎないのだから、身の程を知りなさい。」といった説教を諸侯にしていた。だが統一王朝の時代の儒者の多くは、皇帝を仁君だとおだてて自尊心を刺激し、その上で仁君に相応しい徳を説いたのである。
 今や人類の圧倒的立場は疑いようもない。その強盛なる人類には、「諸君は生存競争の歴史の一プレイヤーに過ぎんぞ。」と教え込むよりは、「皆さんは諸生物の支配者です。そして支配者に食料や医薬品や日用品の材料を供出する民の種類や数が減れば、支配者の生活も悪化します。」と教え込む方が、却って生態系の保全に資するのではないか、と思う次第である。

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

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孟子〈上〉 (岩波文庫)

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