「戦う民主主義」は必ずしもその国・その時代の「中道」の味方ではない。

 制度としては概ね民主主義を採用し、その上で思想良心の自由を一定程度制限して極論を法的に禁止する、所謂「戦う民主主義」というものがある。
 右派や左派に属してこれを推奨する人には、しばしば「君もただでは済まない可能性が高いぞ!」という警告が寄せられる。
 しかし中道、それも自称ではなく本当にその国・その時代の中道に属する人が、戦う民主主義への移行を主張した場合には、そういう脅しはほとんど寄せられない。せいぜい「そうなったら確かに君達の天下だろうが、極論との議論を怠ると思想は劣化し、発展性を欠くから、長い目で見ると損かもしれないよ!」と、慈悲を乞うかの如き内容の説得が寄せられる程度である。
 しかし私は、戦う民主主義は、短期的に見ても、客観的に中道である人々が大損をする可能性があると考えている。
 どういう事かというと、極右・極左が禁止された場合、かつてそこに属していた者の内で余程の気骨のある人物以外の勢力は、合法の範囲内でのぎりぎりの所にいる右翼・左翼に鞍替えする可能性が高いという事である。
 これは適当に考えた机上の空論ではない。
 戦前の日本では、2・26事件の後、中道勢力の間では「皇道派は許せぬ!」という機運が高まり、その機運の中で「今回の件で予備役になった皇道派の高官が、後に個人の資格で陸軍大臣にならないように、軍部大臣現役武官制を復活しよう!」という声が承認されてしまったのである。
 その結果、統制派が一気に強大化したのは周知の通りである。彼等の価値観は皇道派に比べれば確かに議会に近かったのだが、対抗勢力を無くして頭数が一気に増えると、実は十分に危険な連中であったのは、その後の歴史からも明らかである。
 つまり極右・極左を弾圧すると、中道勢力は右翼や左翼を分裂させて統治するという手法が困難になるのである。
 なお、本稿は「だから戦う民主主義に反対!」という目的で書かれたものではない。
 人によっては寧ろ、「成程、ならば危険だが一発逆転を目指して戦う民主主義の導入に賛成してみようじゃないか。このままジリ貧になるよりは、ドカ貧か栄光のどちらかが待つ大冒険に果敢に挑戦だ!」と考えるだろうから。