伊藤博文著『憲法義解』

 気の遠くなるぐらい大昔、ある歴史の本で、「伊藤博文は自分で憲法を作って、しかも自分で解釈書まで書いてその解釈を固定化した。」という意味の文を読んだ記憶がある。その時は、「フム、そんなものか。」と思ったものである。
 本日図書館で、こんな本を見つけた。

憲法義解 (岩波文庫)

憲法義解 (岩波文庫)

 フム、これがその悪名高い解釈書かと思って、読み始めたら、冒頭の宣言の中に以下の様な部分を見つけた。
「敢て大典の註疏と爲すにあらず。聊備考の一に充てむことを冀ふのみ。若夫貫穿疏通して、類を推し、義を衍ずるに至ては、之を後人に望む事あり、」
 この部分を読む限りでは、解釈権の独占という傾向は薄そうである。勿論、これが建前だった可能性も現在の私の知識では否定できないが、それならそれで先の歴史書は伊藤批判の矛先の鈍さが批判されてしかるべきである。

 そして法学を少し齧った今だからこそ気付いたのだが、もしもこの義解に憲法解釈権の制限という法的効果があったとしても、今度は伊藤の死後、義解の文言の自由な解釈が始まるだけの話なのである。