藤原正彦著『国家の品格』(新潮社・2005)

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)

評価 知識1 論理1 品性1 文章力2 独創性1 個人的共感1
 3ページ、以心伝心等が通じる日本と対比する形で、「人種のるつぼと言われるアメリカでは、国家を統一するには、すべての人種に共通のもの、論理に従うしかないのです。」とある。しかし、かつて言われていたように「るつぼ」であれば、各地域からの移民が融合して一つのアメリカ人が出来上がっていてもおかしくない。そこで最近では、アメリカが多人種国家である事を主張したい場合は、「人種のサラダボウル」という表現が好まれている。
 また、以心伝心が通じるか否かといった文化的な要素に対応する所属の分類法としては、「人種」より「民族」の方が適当である。「人種」は先天的な意味合いが強く、「民族」は後天的であるからだ。人種と文化的要素とを無理に結びつけると、ナチスの様な人種差別へとつながりかねない。
 4ページ、イギリスとアメリカとを対比させて「同じアングロサクソンとは言っても、アメリカとはまったく違う国柄だったのです。」と書いている。アメリカの人種構成に関する認識が、3ページと矛盾している。
 5ページ、日本の金銭至上主義を「アメリカ化」と単純に見做しているが、かつて日本経済が好調であった頃に、アメリカ人から日本人は文化を破壊する金の亡者であるといった類の批判が浴びせられていたという事実は、若造の私より著者の方が知っているはずである。不景気に苦しむ者は、しばしばこの種の負け惜しみを言うものである。
 6ページ、「市場経済に代表される、欧米の「論理と合理」に身を売ってしまったのです。」という表現が登場する。イギリスが「欧」に含まれないとしても、他の欧州諸国でも伝統は随分重んじられている。それでも私は何とか日英対欧米の枠組みなのだろうと最大限好意的かつ整合的に解釈して、第一章へと進んだ。そして13ページでイギリスがヨーロッパの内の一国と見做されていたので、そうした好意が無駄だったことを知ったのである。
 講演記録をそのまま文字化した文章であれば、ある程度の矛盾が登場するのは寧ろ普通だが、6ページに「大幅に筆を加えた」だの「ほとんど全ての文章に筆を入れる羽目になりました。」だのとある以上、やはりこの種の矛盾が残っているべきではないと思われる。

 第一章は、近代的合理精神の限界についてである。
 13ページ、「欧米は野蛮だった」の項で、産業革命で世界を征服したからといって必ずしも白人が優秀とは言えない証拠として、五世紀から十五世紀までの中世ヨーロッパで文学作品が少なかったという例を挙げている。だが通常は、劣った状態から強大になった者は、昔から強大だった者より優れていると見做される。昔は自分の方が格上だったから今でも偉いはずだという論法は、阿Qにしか通じまい。そして180ページで著者自身が、明治維新後の日本の軍事力の急速な拡大と戦後の日本の経済力の急速な成長とを誇っている。これでは阿Qにすら通じまい。
 これに続けて14ページ、「一方、日本は当時すでに、十分に洗練された文化を持っていました。」とある。「当時」の最後の年である西暦1500年ならともかく、最初の年である401年に、日本がすでに十分に洗練された文化を持っていただろうか?
 同ページ、「英文学も今では威張っていますが、有史以来一五〇〇年までの間にどんな作品が生まれたか。『カンタベリー物語』ぐらいしか頭に思い浮かばないでしょう。」とある。ちなみに現代日本の若者の相当数は、サブカルチャー等を入り口にアーサー王物語に触れている。
 15ページ、√2が無理数であることが古代ギリシャで分かっていたのに、11・12世紀のヨーロッパでは分かっていなかったという事実を指して、「文明は着実に進歩しても、文化は退歩することがある、という典型的な例です。」と著者は言う。まず数学は「文化」より「文明」に属すると思われる。また、そもそも古代ギリシャの叡智の後継者は中世においてはイスラムである。中世ヨーロッパの主役たるゲルマン人の祖先は、古代においてもやっぱり√2が無理数であるかを知らなかったはずである。
 同ページ、1500年という年に英・露・伊・独が統一されていなかったのに対し、「日本はとっくの昔から統一国家」だったと著者は主張する。非常に不思議なのだが、何故1500年同士で比較しないのだろうか?そうすれば恣意的な時代設定という批判こそあれ、比較という意味だけは残っただろう。ちなみに西暦1500年の日本は戦国時代。各地の大名が天皇征夷大将軍の権威を原則として認めているという理由でこれも統一国家だというのなら、神聖ローマ帝国統一国家だろう。「とっくの昔」とやらの統一が有効というのなら、イタリア半島は紀元前に共和制ローマによって統一されている。これは『日本書紀』に書かれている四道将軍の派遣よりも早い。
 16ページ、「先進国はすべて荒廃している」の項では、先進国が荒廃している例として、核兵器の拡散が挙げられている。核兵器を新たに保有し始めた国は、著者自身が書いている様にパキスタン・インド・北朝鮮等である。
 同ページ、「これからもどんどん(核兵器を)持つ国が増えるでしょう。なぜなら外交上、核兵器を持った方が確実に得をするからです。」とある。では何故、その確実に得な行為をしない国が多いのか?途上国には技術上の限界があり、日本では反核の思想が強いから仕方ないとして、技術的にも感情的にも核を持てるはずの国が敢えて持たないでいるのは、少なくとも今すぐには核を持たないほうが国益になると判断しているからである。
 20ページから論理・合理への批判が始まる。このページでは両者は、「非常に重要」だが、「それだけではやっていけない」ものとされている。ならば論理・合理をとやかく言ってないで、補充すべき何かについて語るのが筋というものであろうが、34ページまで論理・合理だけだったために失敗したと著者が思い込んでいる事例が延々列挙され、なんとそこで第一章は終わってしまっているのである。こんなものをいくら列挙されても、先に補充すべきものを教えてくれなければ、それがなかったせいで失敗したのかどうか読者としては検証のしようがない。
 なお、26ページにアメリカ社会が安定性を失っている例証として「アメリカの人口あたりの弁護士の数は、日本の二十倍です。」とある。浅香吉幹著『現代アメリカの司法』(東京大学出版会1999)の序章の第四節に詳しいが、両国の弁護士の業務内容は大きく異なり、弁護士人口の単純な比較はできない。アメリカ帰りでありながらそんな基礎的なことも知らないのか、それとも知った上で読者を統計の罠に嵌めようとしているのか、どちらにしても弁護の余地がない。

 第二章の題名は、「「論理」だけでは世界が破綻する」となっている。この時点でかなり違和感がある。今までの記述では、欧米にも「論理」の他に「合理」があったはずだ。日本は「論理と合理」に身を売ったとも言っている。論理だけでは世界が破綻すると題しても、第一章を妄信した読者ほど、「心配御無用。日・欧・米に合理あり!」と思うのではあるまいか?
 「論理だけではダメ」な理由は四つあるらしい。
 その一は35ページの「論理の限界」である。タイプや株式投資や外国語の達人を養成するために初等教育からそれを教えたら、肝心の自国語や算数の能力が落ちたという事例や落ちるだろうという予測が語られている。一言でいうなら、ある問題を論理的に解決してもそれにより別の問題が発生する場合もあるということだろう。だがこれを読んでも、「一問題の解決手段が他の問題を惹起する可能性を予測するための知識や合理的判断力も必要だな」と思うだけである。
 その二は44ページの「最も重要なことは論理で説明できない」である。その証明として47ページに「人を殺していけない論理的理由なんて何ひとつない。」「論理的というだけなら、良い理由も悪い理由もいくらでもある。」とある。両者が同じページに登場しているのは、ある意味で良心的である。記憶を30秒以上保てる人なら誰でも本書の価値を見破れるからである。
 付随して49ページで、「(子供に対しては)重要なことは押しつけよ」と主張し、これは日本の国柄だとも言っているが、未成年者へのパターナリズムは大抵の欧米諸国に少なからず存在している。
 その三は50ページの「論理には出発点が必要」である。出発点は情緒とのことである。倫理的判断の源泉を感情であるとして、そこから倫理を論理的・合理的に構築または説明する方針を採る倫理学はいくらでもある。その意味で、「その三」自体がそれなりに正しいが故に前述の「その二」を無意味化しているとも言える。
 その四は55ページの「論理は長くなりえない」である。これは現実世界で未来を予測する際には不確実性が伴うという話である。推論と論理は異なるし、確率に目を向けるのは「合理」だろう。
 なお「その一」の解説である43ページでは、「国民に受けるのは、「国際化だから英語」といった、いちばん分かり易いワンステップの論理だけです。ある大新聞の世論調査によると、小学校で英語を教えることを、八六%の国民が支持しているといいます。こうやって国民が国を滅ぼしていくのです。」と書いてあった。ところがこの「その四」の解説である59ページでは、小学校で英語を教える理由となった論理を「ツーステップ」呼ばわりしている。無理に整合的に解釈すると、国民の86%に支持された程度ではまだまだ「国民に受け」ていない事になってしまう。
 60ページで総括の意味を込めて、知識・情緒・大局観が必要だと言っている。論理的思考力や合理的判断力の他に、そのための基礎となるデータが必要だというのは、『論語』で既に孔子が言っている。社会の安定に寄与する価値基準を教育を通じて未成年者に叩き込むべきだというのは、『国家』で既にソクラテスが言っている。両者とも大上段に構えて論理を誹謗せずとも、既に常識化していることである。大局観については「その一」で述べたとおり、知識と合理の総合と考えればよい。こんな常識を、まるで自分の発見であるかの様な形で確認するためだけに、著者は大量の嘘や無駄を費やしたのだ。

 第三章では、自由・平等・民主主義が疑われている。
 66ページで、自由という概念について、「憲法教育基本法をはじめ、さまざまな法律にも、基本的な人間の権利として書かれております。」とある。しかし本書が刊行された当時の旧教育基本法では、「自由」という言葉は第2条で「学問の自由を尊重し」という形でのみ登場する。文脈上も、「実際生活に即し」等と並列に登場しているので、美辞麗句程度の意味しかない。こんなものを憲法と並べて自由関連の法の代表であるかの如く書いているのは、おそらく教育基本法改正の風潮に乗る事で大衆受けを狙ったからであろう。
 67ページで「人間にはそもそも自由がありません」と言い、68ページでは究極の自由たる自然権を国家に委託するだのと言っている。この混乱は、日本で「自由」という単語が「可能」という意味を併せ持っていることからしばしば発生するものである。よってこれに関しては著者の個人的責任の追求を控えるが、自由に関する彼の政治思想史の与太話が無意味であることに変わりはない。
 67ページ、「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけです。」とある。学問の自由や集会・結社・表現の自由や奴隷的拘束及び苦役からの自由や思想及び良心の自由や信教の自由なしで、権力の何をいかにして批判でき、その批判に何の意味があるのだろうか?もし、そうした自由も権力批判のためにやっぱり必要だと思うのであれば、何も言ってないのとほとんど同じである。
 70ページ、予定説を紹介した上で「それにしても、どんなに極悪非道の者でも、救済されることになっている者は救済される、というのは私たちの理解を絶します。」と言う。「私たち」とは誰だろうか?既に総統にでも就任して日本から信教の自由を消滅させた気にでもなっているのだろうか?周知の通り、少なくとも現時点では日本で予定説は禁止されていない。これに続けて「仏教の方では基本的に、善をなした人とか、念仏を一生懸命唱えた人だけが救済されるという、理解しやすい因果律だからです。」となっている。仏教は仏教でも浄土真宗の信者は、著者の理解を絶するが故に「私たち」の仲間に入れてもらえなさそうである。
 73ページ、アメリカの独立宣言の「我々は次の事実を自明と信ずる。すべての人間は平等であり、神により生存、自由、そして幸福の追求など侵すべからざる権利を与えられている」と聞かされても、著者は「三十二歳のヴァージニア州議会議員トマス・ジェファーソンはそう思ったんだな。」と思うだけらしい。私は、「他の起草委員や採択者達の大半もそう思ったんだな。」と思う。仮にアメリカ史に無知でも、「我々」という主語に気付いていれば、少しは幅広い視野を持てたと思われる。
 同ページで「自明と思うものにまで神を持ち出されたら、」とある。引用部分を読めば、自明と思うものに神を持ち出したのではなく、自明と信じる様々な内容の中に神の行為が含まれているのだと、子供にも理解できるはずだ。
 74ページ、自由や平等を貶めて「理論的根拠と言えるものがありません」だの「神なしには実態をうまく説明できない」だの「論理の出発点はかくもいい加減」だのと著者は主張する。第二章までは、論理の出発点は論理でないもので良かったはずなのに、そして51ページで宗教も情緒に含めていたはずなのに、ここで突然宗旨変えが行われている。
 75ページ、ここで著者独自の「民主主義」の定義がなされる。最初に民主主義を実践したのはアメリカとのことである。古代ギリシャに民主主義がなかったというのは、随分と民主主義を狭く定義したものである。このページでは、「民主主義の根幹はもちろん国民主権です。」とも書かれている。ところが78ページでは「日本も少なくとも、昭和十二(一九三七)年の日中戦争勃発までは民主主義国でした。」と、随分と民主主義を広く定義している。79ページではそれが高じて第二次世界大戦を「実際は民主主義国家対民主主義国家の戦争でした。」と評価している。民主主義の定義は論者ごとに伸縮するものであり、上記のどのページの定義もそれぞれ間違いとは言い切れないのだが、一個人が同一の著作で自分に有利に話を進めるためにコロコロと定義を変えるのは卑怯である。
 79ページ、「日米戦の期間中は東条英機の独裁」だったとのことである。1944年7月までに日米戦が終結していたとは知らなかった。
 80ページ、またもや民主主義の本質を主権在民という狭い定義に戻した上で、「主権在民とは、「世論がすべて」ということです。」と主張している。世論が全てなのは直接民主制である。
 また同ページでは、ポピュリズム的傾向を評して「民主主義がそんな事態に陥ることは、誰も想像していなかったのではないでしょうか。」とあるが、衆愚制の脅威はプラトンアリストテレスの著作で既に懸念されていたことである。
 ポピュリズム批判自体や83ページで提案されるその対策としてのエリート養成という考え方は基本的に正しい。そして真のエリートの条件として、大局観のための教養と、国家・国民のために喜んで命を捨てる気概の二つを挙げているのも、概ね賛同できる。しかしその論旨の果てに、86ページで「東大を優秀な成績で出た人」を誹謗しているのは不思議である。確かに戦前のエリートには教養と気概において劣るかもしれないが、現状で一番著者の希望に近い集団は「東大を出た官僚」ではないか。まず東大入試には、文系でも数学が課せられるし、理系でも国語が課せられる。そして文一・理三の最難関試験を突破して入学した者も、最低でも二年間は教養学部に所属させられ、直接的には法学にも医学にも役に立たなさそうな学問を学ばされる。そして商社や金融業界に就職すれば莫大な給料を手に入れられたはずの人材が、国家・国民のため喜んで安月給の官僚になっているのである。東大を批判すれば本が売れるだろうといった邪な思考回路を持つ連中こそ、民主制を衆愚制に堕落させる扇動家である。なお、仮に東大をどんなに優秀な成績で出ても、公務員試験の教養科目の出来が悪ければ、官僚にはなれない。
 81ページ、「世界中の人々がかかっている悪疫があ」るらしい。それは「弱者こそ正義」という考え方で、「だから、O・Jシンプソンやマイケル・ジャクソンが無罪になるという、誰もが首を傾げるような判決が出」たらしい。世界中の人々が悪疫にかかっているなら、誰一人判決に首を傾げないはずだ。ところで、誰もが首を傾げるような判決を、一体誰が出したのだろうか?
 82ページ、「二審の判決では、約六億円の和解勧告に落ち着きました。」とあるが、和解勧告は判決ではない。
 87ページ、女性も政治家に成れる現代のイギリスに関する話題で、政治家の性に関する醜聞を「女性問題」と総称しているのは、酷い性差別である。
 88ページからの平等批判も論外である。先天的な能力が平等でないからという理由で、国民は国家から平等に扱われるべき等の意味を持つ平等思想を批判しているのである。こんな論法が使えるなら、「儲けは山分けだ。」という契約すら結べなくなってしまう。
 91ページ、差別を撲滅するには、「平等という北風」は無効で「惻隠という太陽」をもってしなければならないらしい。そして惻隠こそ武士道精神の中軸とのことである。もしそうなら、現代以上に差別が激しかった江戸時代は、現代以上に武士道が廃れていた時代ということになる。
 92ページ後半、「自由と平等は両立しない」。同ページ前半では「自由、平等、民主主義などは抑制を加えない限り、暴走するものなのです。」と、絶対的自由や絶対的平等を否定的に語っていたのに、自由を平等が抑制したり平等を自由が抑制したりする事は我慢がならないようである。
 絶対的自由と絶対的平等が両立しないことは誰でも知っているから、何とか折り合いをつけるためのルール作りが各国において時代ごとの国情に合わせて考えられてきたのである。二つの原理が抵触する時、日常世界では調整による解決が目指されるのが普通なのに、著者にはそれが欠点に見えるらしい。一つの公理系において公理同士の矛盾があってはならないという数学の世界に浸かり過ぎた故の思考法だろうか?
 ところが読み進めると判るのだが、著者自身が抵触の可能性のある二つ以上の道徳を賞賛しているのである。後の111ページでは家族愛を至高とする「四つの愛」が賞賛され、127ページでは著者の父親が武士道精神から作った「五つの禁じ手」が賞賛されている。禁じ手を簡潔にまとめると、大きい者が小さい者を殴る・大勢で一人を倒す・男性が女性を殴る・武器の使用・相手の涕泣後や謝罪後の攻撃である。ではテロリストが著者の家族を人質にとって、「男性複数名と連れ立って自分達より背の低い女性を一名、武器を用いて攻撃し、相手の謝罪後も少なくとも一回は殴れ。さもなくば家族を殺す。」と要求してきたらどうするのか?著者の論法では、「家族愛と武士道は両立しない」ことになる。

 第四章は日本的情緒の称揚である。
 97ページ、「日本の庭師は世界一」とのことである。あるイギリス人女性が行った日英の庭師比較を引用している。イギリスの庭師が雇い主の言いなりに作業するだけなのに対し、日本の庭師は指示に反論してくるとのことである。普通ならここで、彼女がイギリス人だからイギリス式庭園の造形においては庭師を驚かせる程の酷く間違った指示をしたことがないだけではないかとも考えるはずだ。仮にこの話を鵜呑みにし、なおかつ雇い主に反論するのが良い庭師だという価値判断を無批判に受け入れたとしても、日本の庭師はイギリスの庭師に勝っただけである。英を倒せばそれだけで世界一なのだろうか?
 98ページ、「字なんて相手に分からせれば済むものです。しかし日本では書道にしてしまう。」とある。書道が生まれたのは中華であり、日本で書道以外の何かが書道にされてしまったわけではない。
 99ページ、「漢字を真似してからあっという間に訓読みと万葉仮名、続いて平仮名、片仮名を発明」したらしい。漢字が入ってきてから平安時代の平仮名発明までの数百年の歴史を、「あっという間」と感じる日本人はかなり少ないと思われる。
 前述した111ページの「四つの愛」は、家族愛が至高であり、以下郷土愛・祖国愛・人類愛という序列になっている。それでいて137ページでは経済効率のために英語が国語を圧倒している傾向のみを嘆き、共通語が方言を圧倒していることは全く嘆いていないのである。

 第五章では武士道精神の復活が目指されている。
 118ページ、「神道からは、主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行などの美徳を取り入れました。」とある。この三つの美徳については、確実に儒教からの影響の方が強いであろう。当初は誤植とすら思ったが、儒教からはまた別のものを取り入れたことになっているので、どうやら本気で神道の教義から取り入れたと思っているようだ。
 128ページ、「法律のどこを見たって「卑怯なことはいけない」なんて書いてありません。」とある。なお、民法第一条第二項や民事訴訟法第二条には信義誠実の原則が規定されている。

 第六章は、今までの繰り返しや体験談で構成されている。
 130ページ、イギリスの国力が低下しても外交力が高いのは、普遍的価値を生み出してきたため尊敬されているからだと著者は主張する。そして議会制民主主義という制度や、イギリス出身の世界史上の偉人が列挙されている。184ページでカルヴァンと並んで「現代のすべて」の根源として扱われているロックがこのページでは入念に除かれているのは、御愛嬌である。
 155ページ、人類の当面の目標は、「二度と大戦争を起こさない。大戦争に巻き込まれない」ということらしい。そのために、情緒や形が役立つとのことである。ところが156ページでは、「卑怯を憎む心があれば、弱小国に侵攻することをためらいます。」とある。冷戦時代は、米ソ両大国が卑怯にも侵攻先を弱小国に限定したからこそ、大戦争が起きなかったのである。

 第七章、「国家の品格」との題名の通り、この章が著者にとって本書の白眉なのであろう。
 182ページ、アダム=スミス流の古典派経済学を最初に批判したのはケインズとのことである。マルクスの名前すら知らないのか、あるいはマルクスケインズより後に出てきた思想家だと思い込んでいるのか、そのどちらかのようである。
 184ページ、カルヴァンの予定説とロックの思想が現代のすべてであるとし、これがアメリカによって世界を席巻していると主張し、それらを一言で言うと「キリスト教原理主義」になるとのことである。本来は福音派の一派を指す「ファンダメンタリズム」の訳語として生まれたはずの「キリスト教原理主義」を、別の意味で使いたいというのは著者の表現の自由であるから、反対はしない。ところがその直後、「キリスト教イスラム教も尊敬すべき立派な宗教ですが、「原理主義」がつくと一転して危険思想になるのです。」と他人事の様に語るのである。「原理主義」がつくも何も、一行前で自分でつけたのだろうと言いたくなる。レッテルを貼って危険だ危険だと騒いでいるだけではないか。


 著者は理系の学者であり、民族論・文学・国際関係論・法学・倫理学・論理学・政治思想史・宗教学・美術史・経済学史・日本史・世界史等の文系諸学に疎い点に関しては、情状酌量の余地がある。しかし矛盾だらけというのは、理系にあるまじき行為である。