選挙における棄権の積極的意義

 選挙における「棄権」という行為には、根強い批判がある。
 棄権を擁護して、棄権者に不利益を与えるなと主張する者も、多くは歯切れが悪い。「棄権するのも自由。」だの「道徳的には悪でも法的制裁を与える程ではない。」だのと、発想が消極的である。
 そこで今回、棄権の積極的意義を考えてみた。
 
 まず選挙には様々な効果が期待されているが、一つには最大多数の最大幸福の近似値の実現がある。政策の専門化が進んだ現代においては、そして特に普通選挙においては、ほとんどこれだけが目的と言ってもいい。
 これには、全員の欲望の量を常に1としているという、有力な批判がある。例えば、有権者の40%がAが市長になるぐらいなら即座に引っ越すとまで思いつめていても、AでもBでも手に入る幸福の量がほとんど同じである残りの60%の有権者が、ポスターの斬新さへの評価等のほんの僅かの幸福の違いからAを支持すれば、Aが市長になってしまうのである。
 ここに、棄権の積極的意義がある。どっちが勝ってもどうでもいいという人の棄権は、切実に投票する人の一票の価値を自動的に高めるのである。最大多数の最大幸福の実現のためにはあまりに大雑把である普通選挙を、制度を変えるという危険なやり方をせずに、微修正できるのである。
 貨幣においては、物価の高い国の人間が、一食という僅かな幸福を我慢してその食費を寄付にまわすことで貧困国の一名の人間の命救えば、立派で道徳的な行為だとされる。ならば票においても、浮動層という贅沢な政治的立場をたまたま持っていた幸運者が、僅かな幸福を我慢する事も、やはり道徳的ではあるまいか?
 
 勿論私は、棄権には積極的意義もあるからといって、棄権が常に正しいとは言わない。不利益の方が大きい選挙もあるだろう。
 先程は一名の首長を選ぶ選挙をわざと例にとったが、議会における政党の議席配分を決める選挙では、話が大きく変わる。浮動票が消えても、結局議席配分がほとんど変化しない場合も多いだろう。その場合、各政党は雨が降っても槍が降っても選挙に行く狂信的なメンバーを擁した圧力団体の鼻息を窺わざるを得なくなり、大規模な妥協・取引が不可能になるだろう。それは結局は、そうした圧力団体の所属者すら不幸にしてしまう。
 選挙に行くのと行かないのとでどちらが道徳的かは、ケースバイケースとしか言い様がない。