定方晟著『憎悪の宗教 ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」』(洋泉社・2005)

評価 知識1 論理1 品性1 文章力1 独創性1 個人的共感1
 読み始めた途端に、著者の文章力の異常なまでの低さに度肝を抜かれるであろう。「はじめに」の三行目の時点で既に、以下の様な文が登場する。
「「憎悪の精神」という言葉にユダヤ教イスラム教を結びつけることに驚かないひとも、キリスト教を結びつけることに驚くひとは多いだろう。」
 これは「驚かないひと」と「も」との間に、「の中に」等の文字を入れなければ日本語の文章として成り立たないであろう。
 内容の批判を開始する。
 4ページ、ユダヤ・キリスト・イスラムの三大宗教を「ヤルダバオトの宗教」と一括し、「この宗教の中にいる信者自身はそのことに容易に気がつかない。日本人はそれに気がつきやすい有利な立場にいる。」と著者は言う。ある宗教を信じていることを意味する「信者」と日本国籍を有していることを意味する「日本人」とを対比しているわけだ。日本に関する知識が疎い者がこの文を読んだら、日本では前述の三大宗教が禁止されていると思い込むであろう。他にも例えば115ページ等では宗教と人種とが混同されて使用されており、読むに耐えない。宗教・国籍・人種という別個の所属概念を混同している分際で宗教を語ろうとは、随分な蛮勇である。
 しかし、そこまで日本人という立場が便利だというなら試してみようと思い、以後のページは私の日本人としてのアイデンティティを重視しつつ読んでみた。
 15ページ、「「呪い」や「恨み」は一般常識では悪徳であるが、ユダヤ教では神がそれを実行している。この神を敬うためには一般常識は捨てなければならない。」と著者は言う。では一日に日本列島在住者を千名殺害することを宣言したイザナミを敬うには、一般常識を捨てなくていいのだろうか?
 17ページ、聖書におけるカインのアベル殺しの記述を引用した上で、「通常の感覚の持ち主はこれらの記事を読んでカインに同情せずにはいられないだろう。」と著者は言う。カインは、何故自分の供物が神に受け入れられなかったかを聞こうともせず、しかも恨みがあるなら直接神に対して雄雄しく立ち向かえばよいものを、そうした行動を取らずに罪のない弟を殺害した男である。被害者を差し置いてこの卑劣漢に同情するのが、果たして通常の感覚の持ち主だろうか?ところで海幸彦は、強引な弟に大事な釣り針を持ち出された挙句にそれを紛失され、三年後に呪いの言葉と共にようやく返却された後、その呪いのせいで貧しくなり、仕方なく弟と戦ってみたが敗北したために、自分の子孫が弟の子孫に仕えることになった。罪のない弟を殺していながら追放処分と農業従事の事実上の禁止で済んだカインに同情し、それを根拠に「ヤルダバオトの宗教」が悪いと主張するのなら、より同情に値する海幸彦の悲劇を理由に、著者は「日本人」が更にそれ以下の存在であることを認めねばなるまい。
 著者は聖書の様々な事件を引用した後、25ページにて「親が子を憎み、兄と弟が争う、これを日常茶飯事と感じさせるのがこれらの物語である。」と言う。「日本人」なら、イザナギが子のカグツチを憎んで殺し、景行天皇が子の日本武尊を疎んじ、アマテラスが弟のスサノオと戦い、綏靖天皇が兄の手研耳命を殺して即位していることぐらいは知っていると思っていたのだが、著者は知らなかったようだ。
 56ページ、「とるに足りない偶然の一致をもって二つのものを結びつけ、ストーリーを作り上げる。こんなことは精神病者がよくやることではないか。」と著者は言う。私は医学には疎いので詳しくは知らないが、あるいは数ある精神病の中の幾つかにはそうした症状を惹起するものもあるのかもしれない。しかし様々な種類があるはずの精神病をまるで一種類の病であるかのように書き、その患者の振舞いと「偶然の一致」により類似した失敗をすることが、まるでその患者の振舞いと類似しない別の失敗をすることよりも悪いことの証明であるとするかの様な文章構成には、戦慄せざるをえない。特定の病気の患者への差別であり、なおかつ失敗の軽重の評価の基準が非合理的である。
 80ページ、「「そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」と考えて復讐を思いとどまることのどこがすばらしいのか。」と著者は言う。どこが素晴らしいのかと言えば、復讐心を抑えられない人までが、それを抑えられる人と同様に行動する場合が増えることである。
 105ページ、○は円満で仏教的で×・+等の交差は罰や誤りを意味するとした上で、「仏教が伝わった日本では国旗の図案には丸が採用され(単純で描きやすく、識別しやすい、素晴らしい旗である)、キリスト教が伝わったアイスランド、イギリス、スウェーデンデンマークノルウェーフィンランドでは十字が採用された。」と著者は言う。では仏教国タイでは何故円が国旗の図案に採用されなかったのか?なお、円を国旗に採用している国としては日本の他にパラオバングラデシュが存在するが、パラオ国民の大半は著者の大嫌いなキリスト教徒であり、バングラデシュ国民の大半は著者の大嫌いなイスラム教徒である。また、丸はコンパスがないと描けないのみならず中心点を定めるのに苦労するのに対し、直線で構成される国旗は定規さえあれば描ける。識別はともかく、どちらが描きやすいかは明白であろう。
 118ページ、著者は『阿闍世王経』で母殺しの男が仏によって解脱に導かれた話を紹介し、「阿羅漢や辟支仏はひとの行為を知る力がない。ひとがその行為と矛盾するように見える報いを得ることが理解できない。かれらはひとが罪を犯すと、そのひとは必ず地獄に落ちると考える。わたしはかれを地獄に落ちさせないで、涅槃に至らせることができる。かれらがこのひとは必ず涅槃するだろうと思っているひとが、地獄に落ちるのを私は知っている。」という仏の発言を引用している。著者は「ヤハウェには私なんかには判らない遠大な計画があったのではないか」等とは少しも考えずにヤハウェを世俗道徳で裁いてきたくせに、仏が世俗道徳どころか仏教の中・上級者とでも言うべき阿羅漢や辟支仏の感覚にすら背いても批判は差し控えるのである。ところで著者は阿羅漢や辟支仏にすら判らない仏の思想を理解したのだろうか?理解できたと思っているのなら、著者は自分が阿羅漢や辟支仏を超える存在であると自認していることになる。理解はできないがヤハウェや阿羅漢や辟支仏ではなく仏が言っているのだから正しいのだろうと思っているのなら、53ページで自らが定義した「権威主義者」であることになる。権威主義者を「このひとたち」呼ばわりしているからには、おそらく前者なのだろう。
 169ページ、イスラム教過激派が「自爆テロ」を殉教と呼ぶことを批判している。なおその直後の170ページからは親鸞が賞賛されている。どうやら浄土真宗過激派が「進者往生極楽、退者無間地獄」と主張した歴史を知らないようである。
 173ページ、同一の神を崇めるはずの三大宗教が互いに争うことを批判し、インドに起源を持つ宗教を賞賛している。日本史では「天文法華の乱」という事件があったのだが、これも知らないのだろうか?
 「はじめに」と「あとがき」とを総合するに、本書の目的は、世界の紛争を減らすには三大宗教が寛大な宗教になることが必要で、そのためには「だれかがその欠点を指摘してやらなければならない。」からのようである。これに付随して、220ページ、「ところが仏教徒は自らの宗教とは対蹠的な宗教の欠点を目の当たりにしながら、その温順な性格のゆえに、それをしない。」と著者は言う。日本では、空海という僧侶が著書『三教指帰』で儒教道教を批判しているのだが、著者は知らなかったのであろうか?

 最後に総合的批評をする。
 著者の如き人物を見かけることは少ない。16ページのアベルや117ページの吉展ちゃんや118ページの「母」に代表される殺人事件の被害者に対し、程度の差こそあれ同情の念を持つのが人の常である。
 だが私は著者に酷似した人物を一人だけ知っている。それは麻原彰晃という宗教家である。この男こそ、他宗を誹謗し、最終解脱者という阿羅漢や辟支仏以上の存在を自称し、自分の極めて特殊な価値観に適合する殺人を「ポア」と呼んで擁護した人物である。
 220ページには「ひとは自分に欠陥があることを知るとき他に対して寛容になる。」と書かれている。自分の無知という欠点に気付かずに麻原よろしく阿羅漢や辟支仏を超える存在を気取り、三大宗教の教典における自分の感性に適合しない部分をあげつらった挙句、三大宗教を「憎悪の宗教」呼ばわりする様な非寛容な人物がもしこの世にいたら、その人にはこの警句を是非とも噛みしめて欲しい。まして他国の国旗を誹謗する非常識な人物であれば尚更である。