辛淑玉著『辛淑玉のアングル』(草土文化・2003)

辛淑玉のアングル

辛淑玉のアングル

評価 知識1 論理1 品性1 文章力1 独創性1 個人的共感1
 43ページ、「ずいぶん前になるが、ネオナチの取材をかねて、イタリアのムッソリーニの娘や、フランスの極右団体の取材をしたことがある。」とある。個人を紹介する際に、その名前を隠すべき特段の事情も無いのに単に「Xの娘」とだけ表記するのは、実に差別的である。男尊女卑の風潮が激しかった頃の系図の書き手としてなら大いに素晴らしい態度であるが、現代日本社会に生きるライターがこんな事をしてはいけない。
 この引用部分の次の段落の冒頭を見ると、「白人至上主義をうたう彼らは、」となっている。こうした記述から判断するに、おそらく著者はアレッサンドラ=ムッソリーニをベニートムッソリーニの娘だと勘違いしたのだと思われる。取材対象の家柄の方にばかり目を向けて年齢等の個性への注目を怠った結果がこれである。差別心というものは人類にとって実に怖ろしい敵だ。何しろ時にはこうして差別者自身の首すら絞めてしまう。
 もしも著者がそうした勘違いをしていないとするなら、ネオナチ・フランスの極右団体に対する取材のついでにアレッサンドラではなくエッダ=ムッソリーニに取材をしたか、あるいは著者が何の説明もなく「ムッソリーニ」と言う時はロマーノムッソリーニを指すという事になる。どちらにしろ、勘違い以上に不名誉な話である。
 123ページ、「むしろ、カミさま仏さまにすがるようなヤツラに限って、より多くの悲劇をつくりだしてきたじゃないか。」とある。「ヤツラ」呼ばわりした時点で、信仰の内容・形態に基づく差別である。
 また信仰と悲劇産出の関係についても、スターリンやポル=ポトといった巨大な反証がある以上、言いがかりと言わざるを得ない。彼等の悪業が明らかになっていなかった頃のガンジーの台詞を猿真似しても、決してガンジーには成れない。
 こういう人間が他のページでは他人の差別を糾弾しているというのは、実に滑稽である。意気込まなくても簡単に見抜ける程度の偽善ばかりなので、本書は『阿Q正伝』の様に喜劇的な反面教師を描いた小説として扱えば、心の成長のための良い糧となるのではないかと思われる。
 以下、個々のおかしな記述も検討してみる。
 12ページ、「ある初老の日本人男性が、定住ベトナム人のマナーの悪さを怒っていた。銭湯で、立ってからだを洗っていたので注意したのに、まったく言うことを聞かないと言うのだ。」とある。
 これについての著者の対応・評価の内、13ページの「何語で注意したのかをたずねてみると、「英語だ」と言う。外国人はみんな英語を話すと思っているのだろうか。」という部分は実に素晴らしい。
 ところがこの記述は、「どなられた人はさぞ怖かったろうと思う。」と続いてしまう。注意をする際に常に怒鳴っている様な人には想像もつかないだろうが、世の中には怒鳴らずにする注意というものも少なからずある。
 しかも14ページではこの話題を「日本人と同じにというのは、ちがいを認めないことにもなる。」という一般論につなげている。銭湯等の施設の利用法は原則として現地の伝統・習俗に従うべきであるし、バスルームではなく銭湯で他の利用者が座って体を洗ったり洗おうとしている中で立って体を洗う事がどれだけ迷惑な事かは、一度でも実際に銭湯に行けば即座に理解出来るだろう。
 22ページ、男子学生に「「あなたが言う日本人のなかにアイヌは入っていますか? 日本国籍を取得した人は、両親の国籍が違う人は、ハンディキャップのある人は入っていますか? 百歩譲って、あなたの言う日本人に、オ・ン・ナは入っていますか?」と問いつめると、ことばが詰まって出てこな」かったらしい。矢継ぎ早にこれだけ多くの質問をすれば、相手が言葉が詰まるのも無理は無い。
 23ページ、「戦争になったら、いちばん先に殺されるのは私です」という著者の他の著作でも見かける持論が登場する。また「毛色のちがう者、人殺しの足手まといになる者、少しでも人殺しに反対する者から殺されるのだ。それが戦争というものだ。机上の空論で国家を語る連中が、どれほど多くの人を殺してきたことか。」ともある。これこそ机上の空論であろう。そんな異常世界であれば、戦時中に和平論が登場する余地は無く、現存する国家は全て一度も戦争に負けた事の無い国ばかりになってしまう。
 113ページ、「過去の映像をたらい回しにしている」は、おそらく「過去の映像を使いまわしている」と言いたかったのだと思われる。
 115ページ、「ショクミンチってなんですか?」と質問されたらしい。これに続けて、「「植民地支配とは国家による強姦」だと説明しても、彼らにはまったく想像ができない。」と書いている。これは説明が下手なのだから仕方が無い。
 同ページ、「「強制連行があったというなら証明してほしい」と言われ、「じゃ、原爆が日本に落ちたことを証明してみろ!」と怒鳴り返してしまった。」との事である。「怒鳴り返して」は「怒鳴って」の誤記であろう。ところで著者が怒鳴った相手は、「原爆が日本に落ちたのは事実だ。」と普段から主張していたのであろうか?
 この話題に続けて、「植民地支配の結果ここにいることになった奴隷の末裔が、目の前にいる私なのだ。私の存在こそが動かぬ証拠ではないのか?」とも語っている。本当にそう思うのなら、原爆だ何だと下手な小細工をせず、堂々とそう主張すべきである。