辛淑玉著『不愉快な男たち!』(講談社・1998)

不愉快な男たち!―私がアタマにきた68のホントの話

不愉快な男たち!―私がアタマにきた68のホントの話

評価 知識1 論理1 品性1 文章力1 独創性1 個人的共感1
 著者は、後に「オカマ」という言葉を巡って週刊金曜日の主流派と対立した人物であるが、本書の18ページでは「オカマバー」という言葉が特に配慮も無く使われている。この問題に関心がある人にとっては、一応押さえておくべき書籍であると言える。
 文章力は非常に低い。
 例えば50ページでは、「「強姦されるのは、被害者に責任(落ち度、挑発など)があるからなにを聞かれてもいい」という考え方」なるものが登場する。かなり解読が難しかったが、著者が「から」という部分の役割を途中で見失ってそこに二重の意味を持たせてしまったという事に気付き、ようやく真意が掴めた。おそらくは、「「強姦されるのは、被害者に責任(落ち度、挑発など)があるから。だからなにを聞かれてもいい。」という考え方」とでも書きたかったのであろう。
 55ページ、「しかし、神戸の児童殺傷事件を見るまでもなく、当時中学生だった容疑者の写真は、少年法を無視して、インターネットを通じてばらまかれた。」とある。何がどう「見るまでもな」いのだろうか?
 125ページの「考えてみれば、戦後の日本人は、新憲法のもとで「重厚長大型」から「軽薄短小型」に切り替わるという選択をしたことを、お忘れか。」も、文章の体をなしていない。しかも皮肉な事に、この文は、男性の「言語不自由」とやらを批判する「「例の件」ではなんのことかわからない」という題名の節の中に書かれているのである。
 「あとがき」を読む限りでは、著者自身も内容の重複や文章力の低さをある程度は自覚しているようなので、能力の観点からは、救いが無いでもない。
 しかし道義の観点からは、自覚しているのにインテリの友人に推敲を頼まずに粗悪品を世に流したというのは、自覚していない場合より一層罪深いとも言える。もしもその種の友人が一人もいなかったとしても、インテリを金で雇う事は出来たであろう。
 推敲不足の動機については、67ページが大いに参考になる。審議会等の場で、著者には「むしろ、権威もみそもへったくれもない分、なにを言っても許される特権すらある」のだそうである。この特権に胡坐を掻いたまま、書籍の執筆までしてしまったのであろう。
 書き下ろしの著作である筈なのに、用語が目まぐるしく変わるのも問題だ。
 例えば、55ページ1行目では「児童ポルノ」と表記されていた概念が、同ページ15行目では「子どもポルノ」となり、同ページ16行目や56ページ2行目では「チャイルドポルノ」となり、57ページ10行目ではまた「児童ポルノ」に戻っている。これが108・109ページではまた「チャイルドポルノ」になっている。
 160ページでも、6行目では「子ども買春」だった概念が、8行目では「児童買春」になっている。
 出典が明らかでない資料を引いてくるのも問題だ。
 例えば195ページでは、「日本で一番偏差値が高いと言われる東大ですら、世界の大学評価では最下位の位置付けなのである。」とあるが、具体的にどこの世界の何年のどんな大学評価なのかは語られない。これについては、敢えて無粋に追求するよりは、「辛淑玉さんはそんな三流大学に行かずに済んで良かったね。」と著者の幸運な人生を素直に祝福すべきかもしれない。
 アンダーグラウンドのいかがわしさを前面に押し出し続けるなら、それはそれで一つの魅力として機能していたかもしれない。しかし232ページでは、「この「みんな言っている」というフレーズほど怪しいものはない。みんなとは誰と誰なのか、答えてほしいものだ。」と、他人の怪しさに対しては随分厳しい態度を見せているので、怪しさを魅力にする事にすら失敗していると言える。
 本書の主張の全体的な傾向は、男尊女卑の解消よりは、女尊男卑の提言としての色彩が強い。ただしその「女尊」は、結局は旧世代に行われていた性の役割分担の意識に根ざし、それを固定化するであろう形で提言されている場合が多い。
 例えば42ページでは、「顔のない日本と言われ続ける現実を打破したいならばまず、嫁文化を背負ってきたからこそ「現地化」することに抵抗感がない女性が、在外公館の大使になるべきではなかろうか。」とある。嫁文化とやらがどんなもので、それを背負うと本当に現地化への抵抗感がなくなるのかは知らないが、そんな無知な私でも、単純に性を二分して能力の個人差を認めない人間が一般に「性差別主義者」に分類される事なら知っている。
 仮に現地化に抵抗の無い人間が大使に相応しいというのなら、大使の人選ではその能力を特に重視せよと主張すれば良いのである。性に基く分業体制の徹底という古風な大枠の中での、昔とは微妙に異なる配置をしろという提言は、実行されても大して外交力を高めないであろう。
 そして、皮肉屋及び著者と同程度の知能しかない男性は、「単身赴任文化を背負ってきたからこそ「現地化」することに抵抗感がない男性が、在外公館の大使になるべきではなかろうか?」と言い返すであろう。
 他にも、39ページでは「文部省に対抗しようとするならば、日教組の執行部全員を女性にして、」だの、43ページでは「在外公館の外交官のせめて半分は女性にすべきだ。(原文改行)女性なら、くだらない接待などは決してしないからだ。」だのと、類似の事例は大量に見つかる。
 また85ページで、「落ち着いて考えてみよう。不倫とは、一人の弱くずるい男のために二人の女性が泣くことだ。」とあるので、一人の女性が二人以上の男性を困らせる不倫は著者の脳内では存在しない事になっているようだ。これは単なる女性への狂信的崇拝では片付けられない。男性にとって都合の良い女性観と一脈通じるものがある。
 この偏見の塊が、104ページでは一転して「彼の頭は、アクションを起こすのは男性、受け身で待つのが女性というステレオタイプから一歩も抜け出していない。」と同類を批判している。
 以下、個別の問題点を紹介する。
 13ページからは、「チビ」だの「デブ」だのという表現が相対的なものであるという話が始まる。そして14ページでは「そもそも何キロ以上がデブなのだ?」と問うているのだが、「デブ」の基準を体重だけで語るとは、実に見識が浅い。「体脂肪率」の知名度は当時は低かったかもしれないが、「ボディマス指数」はかなり広く知られていただろう。しかもこの記述の直前の話題が身長に関するものだったのだから、二重に驚かされる。
 これに続けて「佐ノ山親方(元大関小錦)と比べたらたいていの人は栄養失調になってしまうだろうが。」としている。だが「佐ノ山親方と比べたら痩せている」人も、佐ノ山親方と比べただけで栄養失調になったりはしない。世界には栄養失調で苦しんでいる人が億単位でいるというのに、程度表現の単語に「栄養失調」を含めるとは何事か!
 19ページ、少女売春に関して「やっとのこと、東京都でも買い手の男を罰する条項ができたが、これだって、遅すぎると言える。しかも、この条例にも問題が多いのだ。」とある。しかし「この条例」の数多い筈の「問題」は一つも紹介されずに、次の段落はレイプの話題に移っている。
 その段落は「「公序良俗」の形容詞は、男の頭にこそたたき込むべきだ。」で終わっている。「公序良俗」が名詞であると、著者の頭にこそたたき込むべきだろう。
 39ページ、「一度決めたら、なにがあっても行動を変えないのは「無謬主義」と言う。」とある。無謬主義とは、読んで字の如く、ある対象が誤らないとする考え方全般を指す。「我々の第一の決定は必ず正しく、それと異なる内容を持つ第二以降の決定は必ず誤りだ。」という発想も確かに無謬主義の一種だが、この特殊例を無謬主義の定義であるかのように語るのはよろしくない。
 同ページでは「素手で「バンザイ突入」した旧日本兵」という表現も登場する。私は初見だったが、鉤括弧まで使用したという事は、「バンザイ突入」とやらは、流石に「バンザイ突撃」程ではないにしろ、それなりに有名な戦術なのかもしれない。
 42ページの「ある第三世界に赴任した大使」という表現は、「第三世界のある国に赴任した大使」の方が望ましいだろう。
 45ページ、「「(女性が)逃げることができたから」起訴しないなんてボケ頭症候群としか言いようがない。それも、そうとう重症だ。(原文改行)この検察官、現場でなにを勉強しているのだ。」とある。「ボケ頭症候群」とかいう聞き慣れない用語を持ち出して、それとしか言いようがないとは、相当特殊な語彙の持ち主である。「ボケ頭」とは痴呆症(現「認知症」)の事だろうか?そうであるならこの比喩は、本当に痴呆症で苦しんでいた人への差別的な表現であると言える。またもし仮に著者が本当にその検察官が痴呆症だと思っていたのなら、その検察官が現場で何を勉強しているかよりも先に、人事等において指摘すべき事が沢山あった筈だ。
 同ページでは「衣服の上からならなにをしてもいいなら、チカンに強制わいせつ罪を適用するのは違法なのか。」と書いているので、著者はチカン行為の被害の実態を余り知らないようである。実際には、肌を直接触られる被害もしばしば存在する。そんな著者が「チカンなんかいるのかね。」と言った男性政治評論家を106ページで「無知を誇らしげに語るな。」と評しているのは滑稽である。
 61ページ、「かつて「川口探検隊」と称する、見事に作られた冒険旅行に人々は感動した。いまも同じように、保険がかかって保護されている疑似冒険旅行に人々は感動の涙を流す。(原文改行)しかし、本当の冒険旅行には、たとえ人の命が奪われても涙一つ流さない。」とある。その「人々」とやらが何者で、著者がその人々の落涙を如何にして調査したのかは知らないが、感動の涙と哀惜の涙とを混同した文章を書くのは止めて欲しい。
 64ページ、「保守的な地方に行けば行くほど、選挙で誰に投票するかは課長などの男上司が決め、妻や母は自分で選んだ人に投票できない。」とある。念のため確認しておくと、日本の選挙は秘密選挙である。
 72ページ、「五〇代の男性局長」のある行為を紹介した後で、「相手のお愛想笑いも自分の都合のいいように解釈をするなんざ、いかに、この国の政治家が自分に都合のいいように国際社会をも見ているかの反映である。」と、随分なこじ付けをしている。「日本人の笑顔に騙されて酷い目に遭った。」系の文章を読み慣れている私としては、その局長は日本人の中でも勘が特別に鈍かっただけではないかと思ってしまう。そして著者自身、5行目では「いままでそんな下品なことをする人は私のまわりにはいなかった。」と書いている。こんな特殊例を基に都合のいいように政治を語るその姿勢には、著者の知能程度が反映されている。
 ところで、日本の政治家を批判出来る程、著者は国際関係に詳しいのだろうか?62ページで「だいたい日韓会談とか、日中会談などと新聞が記事にするたびに、汚らしいドブネズミ色のスリーピースを着たオヤジのイメージしかわかないのが常だ。」と、己の世界観の狭さと想像力の無さを大いに誇っていたのを見るに、どうも心許無い。253ページには「ソ連の次に滅びるのはお利口さんの官僚国家日本だ。」という記述があるので、ユーゴスラビア紛争も眼中に無さそうである。
 100ページ、「被害者の受けた精神的な傷を考えるのであれば、セクハラで有罪判決を受けた教育関係者にはペニスを切る「宦官の刑」を望みたい。」だそうである。ペニスが無い教育関係者はセクハラを絶対にしないとでも思っているのであろうか?それとも憲法第14条1項を改正して、ペニスが有る教育関係者を不平等に取り扱いたいのであろうか?そして「宮刑」や「腐刑」ではなく、敢えて「宦官の刑」としたという事は、天皇家にも後宮制度の導入が必要だとでも思っているのだろうか?
 ところで、これがもし、被害者を口実に著者の個人的な嗜好を満たそうとしただけの案ではなく、「被害者の受けた精神的な傷」を本当に考えての改革案だったなら、「被害者に罰を(ある程度)決めさせる。」等の内容になっていたであろう。
 106ページでは、「チカンは職業を限定しない。」事の証明に、有罪判決を受けた事例ではなく、「わいせつ行為をした容疑で逮捕された。」事例を列挙している。そしてその後の裁判に関する記述は一切登場しない。しかも、逮捕者の氏名こそ秘密にされているが、勤務先・年齢・路線はどの事例でも明記されている。48ページでは「「法に抵触する行為」を叫ぶ出版社が、のちに少年法を無視して、容疑者の段階で、しかも一四歳の少年の顔写真を掲載したことは記憶に新しい。」と、あたかも著者にも容疑者の段階で対象を犯罪者扱いする事の愚かしさが分かっているかのような記述があったので、少々期待してしまっていたのだが、残念ながらここで襤褸が出てしまった。
 124ページでは、「無表情」の代替表現として「能面」という単語を使用している。能面の表情の豊かさについては日本人の中にも無知な人間が多数いるので、ここでは著者を責める気にはならなかった。ところが250ページまで読み進めると、そこでは無表情を「NO面」と表記するだけの気配りがしっかり発揮されていたので、124ページは単なる推敲不足だったのかもしれないとも思った。
 126ページからは安易で単純な世代論に立脚した「団塊世代」への差別が延々と語られている。そして128ページでは「彼らの愛読書は、決まって、歴史物。」と決め付けている。そして著者にとっての「歴史物」の中には「孔子孟子老子」も含まれるらしい。これでは大概の人の愛読書が「歴史物」に「決まって」しまうのも無理は無い。
 そして「過去から学ぶ男たちには、これから来る新しい時代の、男女共生のノウハウは身につかない。」と偉そうに宣言しているが、過去を学ばない著者は同ページで有名な格言を「なせばなる、なさぬは人のなさぬなりけり」と誤記している。ネガティブな発想の人の言う「ならぬ」が実は「なさぬ」である(場合が多い)事を指摘するからこそ格言として意義が有るのであり、「なさぬ」が「人のなさぬ」だと言っても余程特殊な状況でない限りは意義は無いだろう。
 「過去を馬鹿にして勉学を怠った辛淑玉は、自分が理解していない諺を引用しようとして、見事に失敗しましたとさ。」等と、こうした失敗例を反面教師として己を磨く事にこそ、歴史を学ぶ醍醐味がある。誰もが誰かさんのように安直にノウハウを求めて読書をしていると思ったら大間違いだ。
 更には同ページで「「山内一豊の妻」なんか読んでいる輩は論ずる値打ちもない。」とある。山内一豊の妻を扱った作品は単一ではないだろうに、主題だけでよくもまあここまで言い切れたものである。少なくとも司馬遼太郎の『功名が辻』では、自分の方が賢いと思い込んでいる馬鹿な夫の言動が戯画的に描かれている。辛淑玉執筆の駄本ならば余裕を持って嘲笑しながら読める男性でも、『功名が辻』を読んだら少しは反省するかもしれない。
 141ページ、「最低な男は山ほどいるが、中でも一番腐ったヤツが暴力をふるう男である。」とある。中でも一番腐ったヤツがいるなら、それ以外は「最低」ではないだろう。彼等は、最悪の場合でも、最低から数えて二番である。
 同ページ、「マンガに出てくるセックスシンボルの女性の顔は目がぱちくりの幼い少女で、体が大人の巨乳系というのが主流であることを見れば、いかに大人の女ときちんと向き合うことができない男が多いのかがよくわかる。」とある。青年誌掲載の漫画にだけそうした傾向が顕著に見られるというのなら、あるいはそうした分析も一定の説得力を持てたかもしれない。
 だがこれに続けて著者は「欧米などのマンガと見比べてほしい。体がセクシーな大人の女は、必ず大人の女のきつい顔をしている。そんな女性を日本のマンガで見ることはほとんどない。」と書いている。著者自身が「日本のマンガ」と書いている通り、これは画風が国によって違うという原因の方が大きいだろう。読者に「欧米など」とかいう曖昧な地域のマンガとの見比べを依頼する前に、自分がまず少女漫画や少年漫画をも丹念に読んでみるべきであった。そして著者が仮に「欧米などのマンガ」を実際に読んだのなら、男性の顔の描かれ方についても「日本のマンガ」と比べてみるべきであった。
 154ページ、「「南京大虐殺はなかった」と発言する学者たち」が「執着するところは数字」との事である。「なかった」と発言しているのなら、数字にはさして執着していないだろう。彼等が本当に数字に執着しているのなら、「南京大虐殺の犠牲者数は、約0人である。」等の言い方をする筈だ。あるいは著者は、「30万」未満の数値を犠牲者数の仮説として提示した全ての学者を「南京大虐殺はなかった」派として一括しているのかもしれない。そう考えれば辻褄だけは合う。
 同ページではそうした「学者たち」を「国際社会での信用を著しく落としていることに気がつかないのだ。」と批判している。ここで終わっていたなら相当数の賛同者が得られたと思うのだが、直後に「日本のテレビ局の取材陣が現地の韓国人から暴行を受けたが、韓国との関係を考慮して日本政府がこの発表を控えたこと」を「これはとんでもないことだ。」と評しているので、多くの人が興を醒まされたと思われる。学者に高度な政治的判断を要求しておきながら、日本政府の高度な政治的判断は批判しているのだから。まして被害者はテレビ局なのだから、政府が発表しようがしまいが、その気になれば自分達が受けた被害を報道出来る筈だ。その報道すら日本政府から掣肘を受けたというのなら、権力による言論の自由への不当な侵害こそを、韓国の犯罪者や日本政府の弱腰より先に批判すべきだ。
 159ページ、買春を語る節の導入部が「「売春は世界最古の商売である」と得意げにある男性が言った。」となっている。だが、この様な有名な言い回しを紹介する場合には、「ある男性」を持ってくるよりは、「俗に「…」と言われる。」とした方が良いだろう。こうすれば、余りにも有名な言い回しについて著者が初耳だったと思われるという不名誉な誤解を避ける事が出来る。
 191ページでは、かつてのボーイフレンドについて、「女性が男性の籍に入ることが望ましく、かつ韓国籍の私が日本の籍になることが、より社会的にステップアップすることだと考えていたのだろう。」と語り、「そこには「女性差別」と「民族差別」という二重の差別意識がある。」と続けている。しかしここから導き出せるのは「女性差別」と「国籍差別」ではあるまいか?少数民族の人権問題に少しでも関心があれば、国籍=民族であるかのような無神経な文章を書く事には躊躇いがある筈だ。
 196ページ、「たとえば、日本におけるキリスト教の神父や牧師といえば、清く、正しく、知的なイメージを持つ人が多くいる。反対に、仏教の坊主といえば、お金持ちで生臭く、神道といえば右翼を連想してしまう。」のだそうである。「キリスト教の神父や牧師」及び「仏教の坊主」との比較の対象が、何故「神道神職」ではなく「神道」なのかは謎である。
 しかも著者によれば、そんな偏見が存在する理由は、キリスト教系の大学の偏差値が高い事と連動しているのだそうである。学歴社会批判と宗教とを無理に結び付けて語りたいのであれば、大学受験で合格祈願をしに行く先として教会・寺・神社の内どれが一番人気なのかも調べてみるべきであった。
 以上本書を批判的に紹介してきたが、最後に少しだけ擁護論も展開しておく。
 もしも本書が21世紀に出た書籍であったならば、私は全く擁護する気にならなかったであろうが、1998年といえば、まだインターネットの普及が余り進んでいなかった時代である。この時代、情報を自由に発信出来なかった人の中には、ノイズ塗れでも自分が受けた被害やそれと同種の被害を告発する情報が収録された書籍が出た事で、救われた人も多かったであろう。
 大東亜戦争肯定論風の論法で擁護される事は、あるいは著者やその狂信的支持者にとっては本意ではないかもしれないが、この論法は実はラッダイト運動肯定論でもある。後の時代の上品な規範を、条件の違う過去に機械的に適用しようとは、私は思わない。