辛淑玉・佐高信著『ケンカの作法』(角川書店・2006)

評価 知識1 論理1 品性1 文章力1 独創性1 個人的共感2
 第一章は共著者同士の対談である。二人の会話は弾んでいるのだが、やがて活字になって読者の目に触れるという事を想定していないような、内向きの話し方になってしまっている。
 例えば35ページではインテリ・エリート階層に「自分で考えようとしないという傾向」があるという話の一環として、辛淑玉が「ある大企業の、院卒の研究者ばかりを集めた研修会で、私がアドリブで新しい設問をしたら、まったく答えられない。」という発言を行っている。
 ここでは多くの読者が、より具体的な状況を知りたいと思ったであろう。「自分の頭で考える力を身に付ける研修」と銘打っておいたのに「キリンは何故首が長いか?」という質問に対して直ぐに「正解は何ですか?」と聞いてきたら、確かにその研究者は自分の頭でものを考えていない。しかし「人権関連法早暗記速習研修」と銘打っておきながら「父母未生以前の一句を言え!」等と言われたのでは、研究者は単なる被害者である。
 文字化して誰かに読ませる事を予定している対談では、その場にいない読者のために、敢えて会話の自然さを犠牲にしてでも、なるべく具体的な語りを心掛けるべきである。そして聞き手の側でも、読者になったつもりで詳しい事情を聞くべきなのである。しかしながら麗しく互いを信用しきって第三者の存在を拒む本書の著者達は、こうした面倒な作業を行わず、ただ二人が同意見だという事で盛り上がるだけなのである。
 第二章は辛淑玉が一人で書いている。巻末の「初出」によると、『論座』の2005年12月号に発表されたものらしい。
 この章の本文は44ページから始まる。最初の一文は「ここ数年、インターネットというサイバースペースの中で、すさまじいバッシングの嵐が吹き荒れている。」である。「インターネット」にわざわざ「というサイバースペース」と付けたのは、「インターネット」が初耳に近いような読者をも想定している事の表明である筈だ。ところがその直後の文は「たとえば掲示板の書き込みなどでは、」から始まっている。ネット上の「掲示板」は現実の掲示板と機能が相当異なるというのに、いきなりこんな言い回しをされたのでは、ネットに疎い読者には何の事だかさっぱり解らなかったであろう。
 同ページ、「しかし、この匿名の攻撃者たちがけっして叩こうとしない対象が、日本人で、若い男で、そして高学歴の貧乏人である。つまり、彼らこそが、こうした攻撃者たちの正体なのだろう。」とある。これは荷宮和子著『声に出して読めないネット掲示板』(中央公論新社・2003)の主張・分析とほぼ同じであるというのに、さも自分で行った類推であるかの様に書いている。これはもう「剽窃」と呼んで差し障りないであろう。
 なお韓国は1996年にベルヌ条約に加盟し、北朝鮮も2003年に加盟しているので、この問題については最早辛淑玉には国籍や民族を理由にした下手な言い訳をする事は許されない。
 58ページ、「「国民」ではないとして憲法の人権規定からも排除され、無権利状態のまま放置されてきたマイノリティの一人である私」という箇所がある。確かに日本国憲法体制の初期においては、外国人の人権享有主体性を否定する「消極説(不適用説)」もそれなりの力を持っていた。しかし芦部信喜著『憲法学Ⅱ 人権総論』(有斐閣・1994)121ページが指摘する通り、かなり早い段階から判例は肯定説の立場を採用していたのである。民集第4巻12号683頁に掲載された昭和25年12月28日の最高裁判所第二小法廷の判決文には、「原判決は不法入国者は国家的基本的人権の保護を要求する権利を有しないと判示しているが、その謬論たること所論の通りであり、いやしくも人たることにより当然享有する人権は不法入国者と雖もこれを有するものと認むべきである」と書かれている。また仮に消極説の立場を採用したとしても、日本国憲法は第98条2項で条約の遵守を義務付けており、日本国は人権に関連する多くの条約に加盟しているので、仮に外国人が権利侵害状態のまま放置されたとしても、それは無権利状態のまま放置されているのとは違うだろう。
 61ページ、「国会議員という職業は、日本で唯一、安定性のないエリートの職である。」だの「そのような日本社会で、エリートでありながら終身雇用が保証されていない希有な職業が国会議員なのである。」だのと書かれている。しかし地方自治体の首長や議員もまた、一般にエリートに分類される人間が就き、なおかつ終身雇用が保証されていない職業である。
 第三章は再び対談である。
 75ページ、佐高信小泉純一郎靖国神社参拝に関連して「靖国参拝を支持する連中が持ち上げる、彼ら好みの人間の中で、西郷隆盛靖国に祀られていない。乃木希典も入っていない。西郷は西南戦争で当時の政府に敵対した人だし、乃木は自殺した人だから。」とし、次の発言で「こういう具合に、靖国支持者の論理もおかしいわけ。一貫していない。」としている。これは「1.小泉純一郎靖国神社参拝を支持する者は、西郷隆盛乃木希典も好きであるに決まっている。」・「2.靖国神社参拝を支持する者は、自分の好みの人物がその死因を度外視して靖国神社に祀られる事を望まなければ、論理が一貫していない事になる。」・「3.靖国支持者は全員が小泉純一郎靖国神社参拝支持者に決まっている。だから後者のおかしさを証明すれば、自動的に前者もおかしい事になる。」という三つの妙な前提によって成り立っている発言である。1・2は藁人形論法と呼ばれる手法であり、3は自分が気に食わない連中は全部同じ穴のムジナに違いないという短絡的思考が原因である。
 同ページでは辛淑玉も「自殺はいけないのね。天皇のために死ななければいけないのね。」だの「たとえば会津を征服に来た連中だって、みんなあそこに祀られているわけでしょ。」だのと言っている。してみると辛は、「新政府軍・大日本帝国軍の軍籍にあった人物は、戦死せずに退役しても、反乱や自殺でもしない限りはみんな靖国神社に祀られる」という珍妙な靖国神社観を持っていた事になる。だが実際には、阿南惟幾等、自殺した後に靖国神社に祀られた者も多い。なお靖国神社に祀られた自殺者たちについては、秦郁彦著『靖国神社の祭神たち』(新潮社・2010)の156・157ページに詳しい。
 この程度の知識・認識の連中が参拝の賛否の論争に介入しようとするというのは、高望みが過ぎよう。日本中で起きている主要な論争全てに、左翼または右翼の立場から参加したくなるというのは、一部のライターの悪い癖である。だが浅い知識しか持たないまま放言してしまうと、自陣営の愚かしさの例として敵の宣伝材料になるのが関の山である。介入する前に一応勉強をするなり、あるいは自力での介入を諦めて自派の有力な論客を有形無形に支えるなりといった形態での参加をする勇気を持って欲しい。
 81ページ、辛淑玉は「だって、男の人が相手を侮蔑するときの決まり文句が「お前は女みたいだ」でしょ。」と決めつけている。だが実際には男性が男性優位型の性差別主義者であるとは限らないし、男性優位型の性差別主義者も侮蔑の「相手」が女性の時にはこの文句は吐かないし、男性優位型の性差別主義者が本当に男性を侮蔑する時は「お前は女の腐ったような奴だ。」という言い回しを好むので、辛淑玉が紹介するような発言は「男の人が相手を侮蔑するときの決まり文句」には程遠い。
 100ページでは、「不幸中の幸い」という表現が通訳の韓国人に批判されたという話題が出てくる。その後しばらくこの言い回しが「日本的曖昧さ」の代表例として語られ、103ページでは辛淑玉が「「不幸中の幸い」だなんて、翻訳できませんよ。「Which one?(お前はどっちなんだ)」で終わってしまいますよ。」と主張している。確かに直訳は不可能かもしれないが、この表現に抗議したり“Which one?”と聞き返す通訳も無能である。私の電子辞書に入っている研究社の『新和英大辞典 第五版』には、「不幸中の幸い」の英訳例として、“one consolation in sadness”や“a bright spot in a tragedy”といった表現が記載されている。この種の意訳が出来てこそ、真の通訳なのではあるまいか?
 106ページ、狂牛病問題について辛淑玉は「日本がのぞむ安全性が証明されていない段階で、ブッシュから「そこを政治判断でなんとかしてくれ」なんて言われて、本来なら断交ものよ。」と言っている。辛にとっての「本来」的な世界とは、この程度の依頼があっただけで断交するような国際関係が横行している世界なのだろうか?それは随分と居心地の悪そうな世界である。
 第四章は佐高信が一人で書いている。
 114ページ、またもや靖国神社の話題が登場し、「西南戦争西郷隆盛と一緒に戦った島津藩士も祀られていない。」と書かれている。だが廃藩置県が1971年に行われているので、西南戦争の頃には「島津藩士」という立場の者は存在しなかった。
 124ページ、日活映画『戦争と人間』について、「韓流ドラマよりずっとスリリングだと思うが、どうだろう。」とある。ある一国で作られたドラマ群の総称とある一作品とを、乱暴に対比しているのである。おそらく、「韓国のドラマなんてどうせどれもほとんど同じようなものだろうから、全部ひっくるめて概括化して平気だろう。」という差別意識が根底にあったのだろう。
 134ページ、平成の大合併に関連して、「村もずいぶん消えてしまったが、これは小泉内閣が推進する「小さな政府」論に逆行するのではないか。「小さな政府」の原点が村ではないのだろうか。」とある。だが「小さな政府」とは、面積が小さな政府を意味しているのではなく、また予算の絶対値が小さな政府を意味しているのでもない。「小さな政府」の「小さな」とは、例えば合併によって議員の数を減らす事で人口当たりの議員歳費を減額する事等を意味しているのである。
 
参考サイト
裁判所 裁判例情報 判例検索システム 事件番号昭和25(オ)349.http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=56023&hanreiKbn=02(最終閲覧日時 西暦2011年7月17日14時18分)
World Intellectual Property Organization.Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works.Contracting Parties.http://www.wipo.int/treaties/en/ShowResults.jsp?lang=en&treaty_id=15(最終閲覧日時 西暦2011年7月17日14時32分)