辛淑玉の筒井評は法螺と決めつける訳にはいかない。

 検索で飛んできて題名だけ読んで、「あ〜、また一つ新たに無理な辛淑玉擁護記事を踏んでしまった!」と思って帰ろうとしている人もいるかもしれないが、それは誤解である。一応最後まで読んでいって欲しい。
 
 最近、筒井康隆が韓国の日本大使館前に設置された像に関連して品の良くない発言をした。それに関連して辛淑玉が「筒井康隆、長い間ファンだった。ほぼ全部読んだと思う。指が震える。あまりにもヒドイ発言に涙が出てくる。人間としてダメだろう。」と評した。
 筒井康隆は大昔から差別的で品の良くない文章を多く書いてきた。そうした次第で、筒井ファンからもアンチ筒井からも、辛淑玉の「長い間ファンだった。」という自称は法螺に違いないと決めつけられ、大いに叩かれている。
 だが私は、確かにこの発言はいつもの法螺である可能性が高いとは思うが、法螺だと決めつける訳にはいかないと思っている。
 理由としては、辛淑玉という人物は病的に法螺吹きであるだけではなく、病的に身勝手であるという事が挙げられる。その証明については、弊ブログの「記事一覧」から「書評」をクリックして頂き、辛淑玉の幾つかの著作の書評をお読み頂きたい。
 即ち、自分が感情移入出来る狭い対象以外の誰かが筒井にからかわれている時には、その尻馬に乗って散々他人を嘲笑っていた辛淑玉が、いざ自分の大切な存在に矛先が向いた途端に涙を流したと考えれば、今回の辛淑玉発言が真実であったとしても辻褄が合う。
 今回の辛淑玉発言を100%法螺だと頭から決めつける態度こそ、実は「辛淑玉さんは法螺吹きではあるけれども、差別問題には敏感な根は優しい人だから、筒井のファンの筈が無いよ。」という、「無理な辛淑玉擁護」であるように私には思える。
 
 因みに、これは人から聞いた話なのだが、「無人警察」をめぐる議論でも「筒井先生の著作の内で「無人警察」だけ嫌い」とかいう発言が当時あったのだそうである。
 小説家であれ芸人であれ、他者を揶揄う芸風の人物に共鳴する場合、自分やその身近な人物・団体もまた嘲笑われる事を覚悟しておくべきであろう。
 そしてその覚悟が欠けていたが故にある日突然涙を流す破目に陥ったならば、それまで勝手に片思いをしていた相手が転向したのだと言い張るのではなく、自分の身勝手な感情を責めるべきであろう。

にぎやかな未来 (角川文庫)

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