「超能力で思考を読み取られた事がありますか?」「知りません。」

荘子「魚が自由に泳いで楽しんでいるよ。」
恵子「魚ではない先生に、どうして魚の楽しみが解るんだい?」
荘子「それを言うなら、私ではない先生に、どうして私が魚の楽しみを解らないと解るんだい?」
恵子「私は先生ではないから先生の内面は解らないよ。だから同じように、先生も魚ではないから魚の内面は解らないだろうよ。」
荘子「つまり先生は、自分を尺度にして、私には魚の内面が解らないと解ったのだね。じゃあ私も、自分を尺度にして、魚の内面を見抜く事が出来る筈だよね。」
(『荘子』秋水篇を参考にした。)

 
 最近、精神の健康診断みたいなのを受けさせられた。
 質問項目の中には、「超能力で思考を読み取られた事がありますか?」だの「テレビやラジオからあなた向けに暗号が送られてきた事がありますか?」だのといった質問があった。
 それへの回答は、「1.なかった 2.あったかもしれない 3.一〜二回あった 4.何度もあった」の中からしか選べなかった。
 私は「1」を選んだ方が白い目で見られる可能性が低いと経験上知っていたが、やはり可能な限り嘘や知ったかぶりを言う事を避けるべきだという信念は曲げられず、「2」を選んだ。
 「超能力で思考を読み取られた事がなかった。」と断言するには、「あった。」と断言する場合と同じく、自分が他人の思考を読み取る能力を持っている必要がある。そして私はそんなものは持っていないので、たとえ白い目で見られても、より正解に近い「2」と答えるのが正義に適っていると信じたのである。
 考えようによっては、こういう思考過程を辿って空気を読む事を拒絶する私みたいな者こそ、知能に大きな差異の有る者同士が何とか折り合いをつけて運営していくしかない大規模な共同体にとっては、最も危険な存在なのかもしれない。
 だからこそ、論理に拘り過ぎた名家(めいか)は支持を失って滅んだのであろう。
(類似の過去記事→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090107/1231315905

荘子 第2冊 外篇 (岩波文庫 青 206-2)

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