諸子百家は、君主を讃える歌の強制を、どう評価するだろうか?

 儒家は、「法律に従われる事」の怖ろしさを知り抜いている。法律による統治には、常にその文言自体を足がかりにした反抗の気運が内在している。だから礼楽という文化で人間の内面を圧倒し、反抗という発想自体を挫き、自ずと天下万民が帰服してくるようにしむけるのである。
 逆に法家は、そうした「敬愛される事」の怖ろしさを知り抜いている。君主を敬愛した臣下は、つい気を利かして越権行為に走りやすい。これの黙認が慣習化する事で、実際は君主を敬愛していない臣下までもが越権行為に走り、やがて強大な権力を背景に君権を掣肘するに至るのである。また、君主に対して健康を祈ったり「文帝」という諡号を贈ったりする自由を臣下に認める事は、不健康を祈ったり「煬帝」という諡号を贈る自由につながってしまうのである。そうなるよりは、いっそ恐怖による統治を行い、死後は「始・二世・三世・・・萬世」という機械的な名前で呼ばれる事で満足するという、一種の諦めの思想でもある。
 この二つの恐怖を両方とも知っているのが、道家である。だから民衆が君主の機能に気付かず、伝統的な日常生活をただこなしてやがて死んでいく状態こそを、最高の目標とするのである。
 この二つの恐怖を両方とも知らないか、または知った上で敢然と立ち向かうのが、墨家である。強烈な宗教によって君主を頂点とする絶対的な階層性を正当化し、博愛精神を強制し、さらにそこに厳しい規律を加えるのである。儒家と法家の弱点を併せ持ってはいるものの、これが上手く行った時の君権の強さは、道家の比ではない。
 
 さてここで、仮に首都の人民の教育を担当するある臣下が「国中に陛下を讃える歌を歌わせるのが、私の仕事です。」と言ったとして、上述の四思想を奉じる君主の反応をそれぞれ想像してみた。
 墨家を奉じる君主ならば、「アカペラで歌わせる事が望ましい。」と言うだろう。墨家は、民衆一人一人が君権に絶対服従する状態を目指し、そのためには強制も厭わないが、実は音楽が大嫌いなのである。ただし『詩経』の学習はしているので、アカペラという限定付きでの賛成になると、私は推測する。
 法家を奉じる君主ならば、「人民風情が朕を讃えようとしない事が望ましい。」と言い、ついでに「汝に首都以外に関する仕事を任せた覚えは無い。」と言ってその臣下を処刑するだろう。
 儒家を奉じる君主ならば、「強制でない事が望ましい。」と言うだろう。
 道家を奉じる君主ならば、「そんな歌は忘れられてしまう事が望ましい。」と言うだろう。『十八史略』に登場する堯の故事は、まさにこれである。
 
(オマケのクイズ)
以上の文を読んで、次の問いに答えなさい。
『gureneko先生有難う』という歌を誰も歌わないのは何故でしょうか?自分の考えを自由に書きなさい。(ヒント:「鼓腹撃壌」)

詩経〈上〉 新釈漢文大系110

詩経〈上〉 新釈漢文大系110

十八史略 上 新釈漢文大系 (20)

十八史略 上 新釈漢文大系 (20)