辛淑玉著『怒りの方法』(岩波書店・2004)

怒りの方法 (岩波新書)

怒りの方法 (岩波新書)

評価 知識2 論理1 品性1 文章力2 独創性2 個人的共感1
 44・45ページに面白い話が載っている。まず著者に教師たちから資料と手紙が届く。資料は学校で起きている酷い事態を告発する内容であり、著者は一時的に共感する。しかし手紙の内容が、自分達は現職なので戦えないから代わりに糾弾してくれという依頼であったために、結局冷めてしまうのである。
 私の本書への感想も、この話に似ている。著者の紹介する諸問題には確かに怒りを感じさせられたものも多かったのだが、著者の対処が拙劣である場合が多いために、すぐに一歩退いてしまうのである。仮に同じ社会悪と戦う場合でも、著者と連帯してしまっては足を引っ張られるだけだろうなと感じた。
 特に酷いのが、2ページから16ページまでの「私は、毎日、怒っています」のコーナーである。感情的に書いてあるため状況等が把握しにくいのだが、最大限著者に好意的な状況を想定したとしても理不尽であると言わざるを得ない記述が多い。
 3ページには「○○のコンビニエンスストアに強盗が入りました。犯人は外国人風。」という報道が紹介されている。これへの批判が拙劣である。「私とテリー伊藤が並んだら、どっちが「外国人風」に見えるだろうか。」という見た目の問題に収斂してしまっているのである。これが例えば防犯カメラの映像だけを基になされた窃盗事件の報道であれば、それなりに有効な批判かもしれない。しかしこれは強盗事件である。犯人の日本語力等からも、日本国籍を持たない事が推測出来る場合も多いだろう。「結局、犯人は「日本人ではない」ということを言いたいのでしょ。」という捨て台詞も言い過ぎであろう。ここで「日本人風ではない」と何故書けないのか、読んでいるこちらがもどかしい。
 6ページには、「「犯人は日本人風」なんて報道、聞いたことがない。」とある。しかしこれは日本社会で日本人が圧倒的多数だからであろう。外国で起きた事件を報道する場合なら、「犯人は日本人風」と日本のニュース番組も言うのではなかろうか?
 同ページでは、ある学校での講演会で学生からなされた質問が紹介される。「シンさん、日本と韓国(または北朝鮮)が戦争になったら、どっちにつきますか?」とある。もし他の言動もあった長い質問を著者が要約して引用したのであれば、「または北朝鮮」の部分を括弧で括る必然性はあるまい。正確に引用しつつ括弧内の言葉を勝手に補足したのであれば、これも少々問題だ。学生は日韓戦争に限って質問したかったのかもしれない。
 その質問への回答も奇矯だ。「戦争になったら、一番最初に殺されるのは私です。」で始まる。自発的に最前線で人間の盾にでもなって争いを食い止めようとするのかと思って読み進めると、「在日のような、国と国との狭間で生きるものを最初に殺す。どっちについても殺される。それが戦争というものです。」と続いている。横浜中華街の歴史等を思い浮かべれば、この発言は少々誇張し過ぎている様に感じられる。13ページでは妻と母親の争いで中立の立場を保ちながら苦慮している友人に対して「バカたれ!妻の側について、後で母親に死ぬほど謝れ!それが「夫」の仕事だろ!」という面白い助言をしている著者なのだから、この学生の質問へももう少し気の利いた回答が出来なかったものだろうかと惜しまれる。しかもその直後、学生から次の質問が来る前に、「では伺います。在日はどうして日本にいると思いますか」という質問を浴びせて牽制しているのである。
 この講演では、「強制連行があったと言うなら、その証拠を見せてください」という質問も出たらしい。この学生の態度には確かに問題がある。出典を教わった後は自分の足でその真偽を確かめに行くべきであり、講演者には手取り足取り直接資料を見せてやる義務は無いし、もしそんな講演者がいたとしたら、逆に批判精神の無い若い学生を怪しげな資料で騙そうと企んでいるのではないかと疑った方が良い。
 ところが著者の回答がそれ以上に酷い。「じゃ、原爆が日本に落ちた証拠をここで見せてみて。あなたの質問はそれほど愚かなものよ」だそうである。講演の下準備をしてきた筈の講演者に対する講演内容に則した質問に対し、「原爆」という講演者の側で即興で思いついた話題で同じ義務を講演料も払わずに課そうとするだけでも相当卑劣であるのに、「ここで」という条件を追加するのは非道である。また頓智の利く学生なら煙に巻かれず、「『今ここで』とは仰りませんでしたよね。X時間程ここで待っていて下さい。」と言って資料を取りに行き、「さあ、先生が見せてくれる番です。」と言い出したかもしれない。
 11ページ、ある社長が「だいたい、セクハラなんて言いますけれど、女の子のお尻をぺんぺんするのは、これは愛情表現で、日本の文化なんですよ」ととんでもない発言をしている。この二流の日本文化論に対し、一流の批判を浴びせるのではなく、三流の皮肉を返すのが著者である。「では、そのお考えをぜひ社報にお載せ下さい。「女性社員のお尻をぺんぺんするのは、わが社の文化であり愛情表現である」と」だそうである。しかし国家と会社とは別の組織である。その社長の会社には海外の工場や支社もあるかもしれない。
 案の定秘書が飛んできて、「いやいや、辛さん、わが社はアメリカ(の工場)ではちゃんとセクハラ研修をやっていますから」と反論している。普通の文脈ならこれまた許し難い発言であるが、著者の設定した論点に対しては有効な批判になってしまっている。二流は三流に勝るのである。結局著者はこの会社の方針を「ダブルスタンダード」呼ばわりするだけで終わってしまっている。しかし法文化がもし本当に異なっているのであれば、異文化を尊重して各国の実情に合わせた研修をするのは企業として正しい態度である。正攻法を採用すれば簡単に勝てる相手だったのに、下手な奇策を用いたせいで自分が泥沼で溺れてしまっている。
 次の問題点は、差別的な記述についてである。普段の私なら我慢出来る程度の記述だが、この本は他人による差別は糾弾しているので、やはり指摘しておきたい。
 26ページ、「儒教社会で女であるということは、序列の最下位に位置するということだった。」とある。儒教には確かに男尊女卑の思想が垣間見られるが、性差別が当然だった時代に成立した宗教はどれもある程度はその影響を被っている。儒教では男子に生まれても母親にも孝行を尽くさねばならないし、中国歴代諸王朝では男性の幼い皇帝の摂政にその母が就任した事例も多い。このページこそ儒教への差別である。
 161ページ、石原慎太郎都知事自衛隊に対する、不法入国者の凶悪犯罪を語った後で災害時の治安維持を要請した発言が紹介される。これは様々な点で問題のある発言だったのだが、著者による批判もまた問題だらけだ。「軍隊は人殺しが仕事である。その軍隊を前にして堂々とこのような発言をする。つまり、外国人は殺してもいい、と言っているのと同じことだ。」だそうである。自衛隊が仮に軍隊であるとしても、災害救助等の人殺し以外の仕事もしてきたはずである。他国の軍隊も、敵の降伏を認めて捕虜の武装解除をする場合もあるだろうし無人兵器への対策もしていたりするので、仕事を一言で要約する際に「人殺し」になる様な組織は少ないだろう。これは軍人への職業差別である。著者の様な乱暴な論法を用いれば、普段小説家として名を成している人物に評論の執筆を依頼しただけで、「小説家はフィクションを書くのが仕事である。その小説家に対して堂々と評論を依頼する。これは読者を騙して良い、と言っているのと同じことだ。」と言えてしまう事になる。加えて、著者の解釈では全ての外国人が不法入国者である事になってしまう。
 中盤に紹介される方法論の多くがそこそこ真っ当であるだけに、序盤と終盤の質の低さが一層残念であった。第一章と第六章を割愛するだけで、相当まともな本に生まれ変われると思われる。