壮大なる挑戦か?単なる駄作か?

 永井泰宇の作品に『39』という題名の三部作がある。発表当時は話題にもなり、映像化もなされたらしい。本日はこれを紹介したい。
 まずは第一作から。

39 刑法第三十九条 (角川文庫)

39 刑法第三十九条 (角川文庫)

 題名や裏表紙の扇動的なコピーで、いかにも「刑法第39条の是非を問う」といった雰囲気を作っている。
 しかし実際に読んでみると、39条を悪用しようとした犯人の嘘を暴くだけの話である。
 またこれでもし本気で是非を問うたつもりになっていたとしたら、出版倫理以上の問題がある。39条に限らず、刑法の第7章「犯罪の不成立及び刑の減免」関連の条文は全てトリックに使えなくもない。「39条は悪用される事もあるから廃止しよう。」では、例えば第36条の正当防衛まで認められなくなってしまう。そう考え始めると、三流ホラー小説以上の恐怖を味わえる作品である。
 ただし社会的意義はあったと思う。こんな作品が一時的にでも一部で持て囃されたという事は、刑法典がポピュリズムの脅威と無縁ではないという証拠である。「憲法の運用も判例も知らない人が堂々と議論に参加しに来るので困る。」というのは憲法関連の議論の中・上級者がしばしばこぼす愚痴だが、今後は「いやいや刑法だって。」と言ってこの本を紹介出来る。
 さて、次は第二作を紹介する。
フラッシュ・バック39―刑法第三十九条〈2〉 (角川文庫)

フラッシュ・バック39―刑法第三十九条〈2〉 (角川文庫)

 前作と似た様な怪しい事件があったので、主人公が調査旅行をするという話である。主人公は旅先で色々と危険な事態に遭遇したりして、やっとの思いで事件の背景を探り当てる。一方犯人はその成果を突きつけられる前に勝手に自白してしまい、事件は解決する。
 刑法第39条とは前作以上に関係が薄く、寧ろ第41条の是非を問うているかの様な内容になっている。
 題名といい内容といい、読者をからかっているのだろうと好意的に解釈したい所だが、「あとがき」では執筆の動機として偉そうな大義名分が書かれている。
 果たして作者本人だけは本気なのか?それとも「あとがき」すら読者を混乱させるための罠なのか?この第二作は前作と違って推理小説の体をなしていないが、前作の様な三流推理小説以上に頭を悩まされる。
 最後は第三作である。
カルト―39〈3〉 (角川文庫)

カルト―39〈3〉 (角川文庫)

 内容の大半は、巻末に「参考文献」扱いされている内の一冊である『洗脳の楽園』をほぼそのまま剽窃した小説化したシーンで占められている。
 真犯人は、前二作とは違って39条を悪用しようとしているかの様に見えた男ではなく、そもそも39条と完全に無関係だった人物である。それどころか424ページを読めば判る通り、精神鑑定という制度が蟻の一穴となって、真犯人の計画は完全犯罪まであと一歩という所で失敗したという筋書きなのである。
 つまり、39条を礼賛した作品に仕上がっているのである。
 途中経過と結末とが全く結びついていないというのは、第二作でこそ単なる失敗であったが、今回は推理小説におけるフェイクの伏線へと昇華されているのだから、かなり好感が持てる。「今回も作者は刑法第39条を告発しようとしているんだろうな。」と決め込んで読み進めた者を「アッ!」と言わせる仕組みになっている。
 本の裏表紙に「宗教によって人格を変えられた犯罪者に責任は問えるか?」とあるが、これは出版社ぐるみで罠の作成に協力したのだろうか?それとも内容を読まずに作者の言いなりになったのだろうか?
 そしてこの三部作は、鬼才が経歴に傷が付く事を怖れずに意図的に二品もの「駄作」を書いた上で読者に挑戦したものなのだろうか?それとも全ては失敗の積み重ねが生んだ単なる偶然なのだろうか?
 こうして最後まで謎は残った。事情通の方からの情報もお待ちしている。
新装版 洗脳の楽園

新装版 洗脳の楽園