珠玉のホラー短編集 岩井志麻子著『ぼっけえ、きょうてえ』(角川書店・2002)

ぼっけえ、きょうてえ (角川ホラー文庫)

ぼっけえ、きょうてえ (角川ホラー文庫)

 「岩井志麻子」という作家の名前を知ったのは、彼女の書いた超短編集である百物語シリーズのうちの一冊を読んだのが切っ掛けであった。
 この百物語自体は、大して怖いとは感じなかった。どれも同じ長さにしているため、それぞれのネタにちょうど相応しい話の長さになっていなかったため、しばしば冗長さか物足りなさを感じてしまったのである。
 しかし自由な長さで書けば相当面白くなりそうな怪談話を、惜しげもなく百物語にし続けている、この岩井志麻子という人物には恐怖感を覚えた。そしてこの人が自由に書いた怪談を読んでみたいと思ったのである。
 そして入手したのが、角川ホラー文庫の『ぼっけえ、きょうてえ』(2002)であった。1999年10月に単行本として出た内容の文庫化らしいのだが、手元にあるのは文庫本のほうなので、本稿ではこの文庫版に依拠して内容等を紹介していく。
 本書には四作の短編が収められている。そしてそのどれもが、何らかの形で岡山県の貧しい村の村社会を描いている。
 本当に怖い部分は、この村社会における人間模様がもたらす悲劇の部分である。
 「怪異」らしきものも一応描かれているが、それは夢や幻覚かもしれないような状況下で登場するので、せいぜい添え物程度の意味しか持たない。
 時代設定を明治にしているのも、読者に村社会の怖さを感じさせるのに最高の設定である。
 江戸時代の村社会の怖さを描いても、読者にとってそれは「異界」である。「今はもうそんな時代じゃない、よかったよかった。」と感じられてしまう。
 現代の秘境の村の村社会も「異界」である。「設定が非現実的だし、仮に現実にそんな村があっても、自分の実生活の遥か遠くにあるだろう。」と思われてしまう。
 しかし表向きは「近代」を受容した国制の中にあって、敢えて都会に対抗して「村社会」を守り、住民同士で相互に抑圧しあっている世界というのは、かなり現実的な恐怖を感じさせてくる。
 平成の今、もうそんな「村」は存在しない。しかし、小学校のクラスやカルト集団などでは、まだまだそういうものが残っていそうである。そして、自分もまたふと油断した隙に、その小宇宙に飲み込まれてしまうかもしれない。そうした世界への恐怖は、ほとんどの日本人の心の底で蠢き続けているであろう。
 そういう、「現代社会にあって自己の隣にある特異点としての闇」への恐怖を呼び起こしてくれるのは、「近代初頭にあって都会の隣にあった面としての闇」の描写である。
 四作どれも素晴らしかったのだが、一番質が高いと感じたのは、第二作の「密告函」である。これは、プロットが練りに練られていると感じさせられた。計算づくで書いたなら真の秀才の作であり、計算しないで書いたなら真の天才の作である。
 コレラの流行する村の小役人の受難を描いた作品なのだが、同じく「疫病もの」の中で世界的傑作とされているカミュの『ペスト』を、私の中で超えてしまった。
 以下に、軽く内容を紹介してみる。
 主人公の片山弘三は「××村」役場の一番の若手である。いわば、「江戸時代から連続している土俗的な村社会」と「西洋近代社会と連続している明治国家」との境界線上の存在である。
 そしてこの村でコレラの流行が始まる。村人は近代国家が作った隔離病院を信用せず、迷信的な恐怖感を抱いている。弘三は患者を発見したら通報し、村から彼らを隔離する立場の人間だ。ここでも、弘三が村社会と近代社会の境界線上の存在である事が強調されている。
 役場と弘三の家までの道には、細井家がある。弘三は細井家の嫁に密かに恋慕しているのだが、怪力の夫である静吾郎が怖いので不倫を我慢している。
 だが弘三は静吾郎がコレラに罹患して弱っているのを偶然見てしまう。そして細井の嫁は、そんな弘三を見てしまう。この瞬間、様々な立場の人間が一気に様々な恐怖を味わい始める。
 静吾郎の嫁は、夫が国家権力によって隔離されるのを恐れる。そしてその権力の末端である弘三を恐れる。弘三は細井の嫁の尋常ではない顔を恐れ、さらにはコレラ菌の感染を恐れ、なおかつ静吾郎が隔離された場合に村で密告者とみなされて爪弾きにされるのを恐れる。
 「忘れかけていた幼い頃の怖い絵草紙がそのままの毒々しさでよみがえるが、あんな解りやすい幽霊など正に絵空事だ。」(55ページ)と語られ、この一文が本作全体の精神を要約している。
 そして静吾郎を匿い続けた細井一家はほぼ全滅をするのだが、弘三には罪悪感がほとんどなく、ただただ密告者扱いされずに事が済んだのを喜ぶのである。この村社会ならではの精神構造も、ある意味では恐ろしい。
 やがてそういう村社会の特性に対応したコレラ対策として、役場に「密告函」なるものが作られる。罹患の可能性のある者の名前を書いた密告書を誰もがこっそりと投じられる箱である。すると今度は一気に大量の密告書が投じられる。その中には、単なる恨みから健康な人間の名前を書いた書もあった。
 弘三はそれらの書に従って各家庭を検分しに行くのだが、コレラの流行さえなければ隠し通せていたかもしれない各家庭の闇を見る事になる。当主が発狂して座敷牢に入れられていたり、随分前に死んだ死体が家族から生者と思い込まれて遇されていたりと…。
 念のため確認しておくが、成田ミイラ化遺体事件が発覚したのは1999年11月なので、こうした状況設定を思いついた能力は現在の我々の常識で判断するよりも高い。
 そういう精神的に苦しい仕事をしているうちに、弘三のストレスは高まり、やがて視察するふりをして流れ者の「お咲」の元へと不倫をしに行くようになる。こういうサボリかたができるのも、誰が告発されているのかが外部からは不明な「密告函」関連の仕事が、弘三に押し付けられているからである。
 普通のホラーに登場する、あやかしの眷属じみた雰囲気をまとっていたお咲は、すぐにその神秘性を失い、大金持ちの妾になろうとした挙句、正体は弘三の妻「トミ」の可能性が高い謎の女に焼き殺されて死んでしまう。
 この「お咲」も「元気だった頃の静吾郎の腕力」や「怖い絵草紙」と同じく、本当に恐ろしい者を際立たせるための咬ませ犬みたいなものであった。
 お咲を焼き殺した翌日から、トミは夫を心から愛していた時と同じ顔で、コレラの犠牲者の出た家の側の川で採れた魚などの危険な食品を、弘三に出すようになったのである。
 感情を押し殺して表面的な付き合いをして、病魔よりも村八分を恐れて相互に構成員を国家権力から匿い合い、それでいて匿名で密告出来る密告函が出来た途端に憎い相手を密告し合う。そんな村社会の究極が、表面的には大人しく夫唱婦随の家庭を維持しつつ、裏では浮気した夫の死期を早める努力を惜しまない、トミであったのである。
 以上が、大体の「密告函」のあらすじなのだが、肉付けとしての描写の筆力も見事なものであり、伏線の張り方も偽の伏線の張り方も、全て見事なものであった。
 この第二話「密告函」まで読んで、かなり感動をしたのだが、一つだけ著者の能力に僅かな疑いが残っていた。それは、「密告函」があくまで男性の視点での恐怖だということである。トミの視点に立てば、弘三こそが先に不倫という悪事をしたのであり、トミは生温い手段で復讐をしているだけだとも言える。「著者は十分天才と言えるが、女性の視点から見た、村社会や身勝手な男性の悪も書けるのか?」という疑念が残ったのである。
 だがその疑念も、第三話「あまぞわい」で一気に消し飛んだ。
現代百物語 (角川ホラー文庫)

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