純粋な友情

 何日か前、昔の知り合いと電話をした。相手は、私の態度が昔と比較して好意的でないから不快であるという理由で絶交を宣言してきた。私は態度を変えたつもりは無かったので、それから数日の間気分が悪かった。
 しかし落ち着いて自分の感情を分析してみると、不愉快さの第二の理由として、自分ならその程度でそんな事はしないというものがあった。一般に人は、自分や多数派が我慢している事を平気で行っている他者に対し、嫉妬に似た怒りを覚えるものである。
 この怒りは不正な感情である。自分や多数派がある行動を我慢しているのは、実際にはそれ以上の個人的利益を目指しているだけの事なのである。偶々選好の基準が自分とずれている他者を憎んではならない。その人はその人で、自分が追求している幸福を我慢して、自分が追求しなかった幸福を目指しているだけなのだから。
 してみるとその時の私は、関係が「友情」だったからこそとりわけ不愉快に思ってしまったのであろう。「恋愛」だったならば、「よくあるタイプの破局だ。」と納得出来ていた可能性も高い。
 こう考えていくと、「いつの日にか助力を仰ぐ事になるかもしれないから、友人のちょっとした無礼な態度には眼を瞑ろう。」と決めている私なぞより、件の知り合いの方が友情という概念に対して余程純粋と言える。
 顧みれば、自分も幼少期には、好悪の情だけを基準に、気軽に友情を育み、また気軽に絶交していた。
 私自身が二度と出来ないであろう、それ自体以外の利害得失を一切考慮しない純粋な友情に対し、今は賛歌を捧げたいぐらいの気持ちである。これはこれで、自分が出来ない事をやってのけた人物への、不正なる崇拝かもしれないが・・。