記号問題擁護(特に国語)

 このブログでは、今まで数冊の矛盾だらけの本を紹介した。
 この種の本を読む度にいつも不思議に思っていたのは、何故そんなものに騙される読者が後を絶たないのかという事である。
 嘘を見抜けないのは仕方が無い。これは知識が無いと見抜けない。かく言う私自身、紹介した本の中の全ての嘘を見抜いたとは思っていない。
 しかし矛盾については、特別な知識がなくても簡単に見抜けるはずである。いや、中途半端に知識がある者よりも、まずは虚心坦懐に著者の記述を軽信しながら読み進めていく無知者の方が、一層矛盾に敏感になれるとすら言える。
 だがこの日記(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20080707/1215400696)を書いた頃から、ようやく何かが掴めてきた。今回の日記は、ここ数日の思考の纏めである。
 ここ数年、「振り込め詐欺」と呼ばれる手口が横行している。葉書で送りつけてくるタイプのそれに関して、「老人にとって活字は権威だから」と語っている人を、以前テレビで見かけた事がある。これが最大のヒントとなった。
 おそらく変な本に騙される人にとって、一流の出版社から嘘だらけの内容の文章が活字になって出版されるという事態は、想定の範囲外なのであろう。
 さてここで話は急に受験に飛ぶ。
 受験を語る言説においては、一般に記号問題というものは侮蔑の対象である。問題作成・採点の時間と費用の限界からやむなく行われるものだというのが常識となっている。そして記述問題の比率が高い学校、例えば東京大学は、「自分で考え、表現できる力を持った人材のみを募っている!」等と賞賛される事が多い。
 しかし記号問題はそんなに悪いものなのだろうか?私は前述したここ数日の思索の副産物として、記号問題の独自の価値に開眼した。
 例えばセンター試験の国語の問題を見ると、仰々しく美辞麗句を散りばめた選択肢に出会う。五択問題では、その内の四つが実は間違いなのである。よくよく吟味して、本文との矛盾を発見していかなければならない。ここで受験生は、偉そうな活字文の嘘を見抜く訓練が出来るのである。
 記述式だとこうはいかない。国語の入試問題では本文の内容自体は真理として受け入れなければならないので、全て記述式の問題では、他人の書いた文を疑うという過程が存在しないのである。
 して見ると表現力その他の能力に関してはともかく、変な扇動屋に騙されないための知恵に関しては、時に機械的で人間味に欠けるとまで言われるセンター試験の方でこそ試されているという逆説が成り立つのである。