無礼の理由

 これは童話の形式で発表しようかとも迷ったの話なのだが、まずは雑談にしてみた。
 最近、私の知り合いのブログが自分のブログまで持っている固定ハンドルネームの特定個人によって荒らされ続けるという、やや珍しい事件があった。これを機に、「礼」についてここ二年間程考えていた内容を文字化してみた。
 二年前の事である。あるSNSで、それまで知り合いだった人物が急に無礼な文体・内容のコメントやメッセージを書いてきた。何か変な思い込みをしているのが原因の一つである事は内容から直ぐに判ったのだが、だからといって文の品位まで落とす必要は無いだろうと驚き呆れ、柔らかに相手の無礼と非論理性とを指摘してみた。すると以下の様な答えが返ってきた。
「私は貴方と違って一人でいるのが寂しくない。」
 私はそれまで少なくともそのSNSでは「一人でいるから寂しい」という内容の文を書いた事がないどころか、相手が荒らした当の私の日記の内容が「どうしても通じ合えない人間との交流は諦めるしかない。」という孤独の寂しさとは逆の主張であったため、相手が必死で話を逸らそうとしているのか単に妄想と現実の狭間で混乱しているのだろうと軽く思い、放っておいた。
 しかしそれからしばらくして、無礼への批判に対する返事としては説明不足であるとはいえ本人は意外に正直に応答していたのかもしれないと思う様になった。すなわちその無礼者は、「自分が何故こんなにも自暴自棄になれるのかというと、友人なんか要らないからだ。」と言いたかったのではないかと気付いたのだ。
 この仮説が当たっていれば、「礼」の徳目を守っていたのは私の側でも、「礼」の本質をより深く理解していたのは相手の方だという事になる。それまで私は、ドグマとして、あるいはせいぜい「人に不快感を与えないため」という礼の定義の同義反復程度の理由しか考えずに、礼節を保っていたのであるから。
 そう、人が多少の苦労をして礼儀正しくしているのは、その行為を知る者に不快感を与えないことでその苦労以上の利益が期待出来るからである。別の形で表現すると、無礼者というのは性格や環境等の理由により無理に礼儀を守ってもその苦労を上回る利益を期待出来ない状況にあるマイノリティーである。
 こう言うと、「いや、私は誰も見ていなくても上品に振舞っている。」と反発があるかもしれない。私自身が直ぐにそう反発した。しかし更に自己の偽善を抉ると、「己に恥じる事はしない。」というのは、所詮「自分に嫌われたくない。」の言い換えに過ぎなかった。他にも、存在するかもしれない神や盗撮犯を気にしている場合や、いざという時の練習のためという理由が、想定出来た。
 詰まる所ネット上で粗暴な人の比率が多いのは、観光地の商売人に無礼者が多いのと同じ理由による。観光であれネットであれ、まずこの人間の悲哀を認めた上で、理想により近付くための有効な対策を模索していくのが現実的であろう。
 この考えに至った頃から、私は無礼な立居振舞への怒りが半減した。無礼な言動というのは「自分にはこう振舞っても失うものがありません。」という自白であり、感情表現豊かにポーカーの相手をしてくれている様なものである。
「倉廩實則知禮節 衣食足則知榮辱」(『管子』牧民より)