きまいらこわい

 ある日、辰さんの長屋の大家さんが、居住者を集めてこんな質問をしました。
「おい、お前達が一番怖いものをそれぞれ教えてくれ。」
 最初に答えたのが松さんです。
「俺は饅頭だな。美味しくてつい食べ過ぎてしまい、結局自分の腹部が饅頭みたいになってしまう。『食べる』という行為において行為者は絶対的に優位な存在ではなく、生存その他の欲求による衝動に突き動かされて対象と融合してしまっているだけだという事を思い知らされるぜ。」
 これに触発されて、他の居住者も怖いものを語り始めました。
「石仏だな。仏法を超える力を持った悪魔が仏陀に呪いをかけて石化させたんじゃないかと、見る度におぞましく感じる。」
「坂道かな?天変地異で重力の方向が変わってしまったかの様な錯覚に陥るから。」
 やがてまだ発言していないのは辰さんだけになりました。
「おい辰、お前は怖いものは無いのかい?」
「ふむ、強いて言えばアメリカかな?」
 そう辰さんが言った直後、熊さんがアメリカを独力で滅ぼして長屋に凱旋しました。
「わわわ、熊さんってば、アメリカを滅ぼしちまったのかい?ま、これで辰さんには怖いものは無くなったって訳か。」
「いや、今度は熊さんの事が繰り上げ当選で一番怖くなったよ。但し、今度は他にも『人間』と『犬』が同着一位かな。」
 その夜、大家さんは辰さんの部屋に、人間と犬と熊さんを放り込みました。辰さんは恐怖のあまり、それらを全て食べてしまいました。
 
 よく朝、彼は目を覚まし、自分が辰・人間・犬・熊が融合した一匹の「きまいら」である事に気付きました。そして数分もしない内に、債権者達の訪問が始まりました。
「きまいらさん、辰さんの滞納家賃200万円と熊さんの滞納家賃の250万円の合計450万円、払っておくれ。」
「熊さんのアメリカ征伐は終わったんだろ。軍票200万円、そろそろ現金に戻してくれよ。」
「犬に貸してた100万円を返せ!」
 きまいらには、そうした要請が他人事の様に聞こえました。彼はつい数分前に発生したのです。辰や人間や犬や熊の記憶は全部残っているのですが、自分がその中の誰かであるという気はしません。その気分を率直に表明してみたのですが、債権者達はそれを認めませんでした。
「そもそも一秒前の自分と今の自分とが別人だというのは、誰しも少なからず持っている違和感である。だがこの社会は、時間が経っても同質性があるというフィクションで成り立っている。それに法人も合併してもそれ以前の債務が引き継がれるんだから、個人だって同じ筈だ。」
「うう、私は債権者の皆様が怖い!」
 この時、大家さんだけは危険を察知して部屋の外に逃れましたが、残りの二人はきまいらに食べられてしまいました。しばらくして大家さんが辰さんの部屋の中を怖る怖る覗くと、中には辰さんと人間と犬と熊さんと二人の債権者が融合した「きまいら改」が横たわっていました。
 
 きまいら改の意識は複雑でした。複雑であるが故に、時として自己を一なるものではないものとして認識しようと試みました。しかし自己の多様で矛盾した様々な思念みたいなものは、例えば辰さんだって「逡巡」という形で保持していた様な気もしました。
 自分が何なのか判らないまま、そして「自分が何なのか判る」とはどういう事なのかの想像もつかないまま、きまいら改は大家さんへの借金を返すため、見世物小屋で働き続けました。
 一つだけ参考になったのは、自分を見に来る見物客達も自己が何なのかをさっぱり判っていなさそうだという事です。自己の内面について何も考えずに全ての意識を自己の外部に向けているその好奇の目を観察し続けた結果、「自分が何なのか判る」とは、無知と妄信によって「自分」を自明の前提としてしまう境地に近いものなのだろうと、きまいら改は思う様になりました。
 
 その頃、社会では大論争が起きていました。生命の融合の実験を続けるべきか、危険な新生物を今の内に殺してしまうべきか。
 二つの立場はやがて二つの相容れない体系だった主義となり、多くの主義国を生み出していきました。
 融合を重んずる思想の国々は、「志を等しくする人々が集まって出来た」融合主義連邦を形成しました。赤道付近の国々が比較的多かったので、この勢力は俗に「赤道側」と呼ばれました。
 融合を嫌う思想の国々は、「主体的意思を持った個々人が、そうでない全体主義者から別れて出来た」純粋主義同盟を形成しました。これは「極地側」と呼ばれました。
 大家さんはこの激動を冷ややかに見ていました。父母の情報の融合で発生した筈の連中が、きまいら改を化け物か奇跡かの少なくともどちらかではある事を前提にして争うというのが、どうにも馬鹿馬鹿しかったのです。この程度の理由で二つに分裂する人類こそ、得体の知れない化け物集団ではないかとも思いました。
 
 大家さんの部屋には二台の受像機があります。今日は回線がそれぞれ同時にジャックされました。珍しく自宅にいた大家さんは、何が起きるか大体知っていましたが、映像を視ないでいる気力も無かったので視続けました。
 窓の傍の受像機では、融合主義連邦の首領が演説を始めました。彼は数ヶ月前に孔雀を融合したため、昔と比べて随分カラフルな外見でした。本名は不明ですが、「きまいらの子」を自称しています。
「中立国日本の皆さん。我々は皆さんの「和」の思想を、我々の思想の先駆として非常に尊敬しています。多くの文化を取り入れて融合させた偉大な地域だからこそ、史上初のきまいら実験を行ったオオヤ博士の様な偉人も生まれたのだと思います。今我々は、皆さんの軍事力とオオヤ博士の知恵を必要としています。どちらか一方だけでもお貸し頂ければ、戦後に純粋主義同盟の故地の三割を進呈いたします。」
 これに対し、ドアの傍の受像機では、首領の演説を打ち消そうとしているかの様な大声で、純粋主義同盟の盟主が演説を始めました。彼は純粋アーリア人であると言われています。
「中立国日本の皆さん。我々は皆さんが長年にわたって民族のほぼ完全な単一性を維持していた事を、非常に尊敬しています。我々は皆さんに少しでも近づくため、異なる生命の融合のみならず、異なる人種間の交配を禁止し、やがては雑居も禁止する所存です。純粋を重んじる地域だからこそ、史上初のきまいら弾圧を敢行したオオヤ将軍の様な偉人も生まれたのだと思います。今我々は、皆さんの軍事力とオオヤ将軍の知恵を必要としています。どちらか一方だけでもお貸し頂ければ、戦後に融合主義連邦の故地の三割を進呈いたします。」
 二つの声は、まるで打ち合わせていたかの様に同じ瞬間に激情的になったり理性的になったり打算的になったりしました。大家さんの耳は、互いの主張を聞き分けようと途中まで頑張っていたのですが、途中から一つの声が意味不明な音を発しているとしか認識出来なくなりました。